「他人からの評価が気になる」ということについて考える
こんにちは、ほんのよこみちです。
自分では頑張っているつもりなのに、他人から評価されない。
むしろ悪し様に言われてしまう。
そういう状況って、辛いですよね。
辛いから、誰かに愚痴りたくなる。
気持ちはわかります。
自分を罵った相手なんて、ギャフンと言わせたくなる。
ああ、最近では、ギャフンなんて言わないんでしたっけ?(苦笑)
人間ですから、自分を正義とした勧善懲悪のストーリーを望みたくなったって、不思議ではありません。
ただし現実は、そのように動けば動くほど、願うようにいかなくなる場合があります。
自分と同じように、他人にも正義がありますから。
そうやって苦しんでいる人が、私の周りには何人もいます。
時に、私自身が「悪し様に言っている側」とされてしまうこともあります。
そんなつもりではなくとも、受け取り側にとって都合のいいように、事実って変化しますからね。
耳をふさいでしまうと、どんな言葉も信じられなくなってしまうかもしれません。
どちらも、やる気がなくなってしまいますよね。
最初に「頑張っていた」のは、いったい何のためだったんでしょう。
皆のため。
自分のため。
本当は、他人から評価されて心地よくなる自分のため、じゃないですか?
とりたててアピールしなくても、人のため、自分のため、であれば、行為そのもので満たされる場合があります、
その行為をする事で、自分のスキルが上がるとか、精神修練になるとか。
行為をさせていただくことで、喜びを感じることもありますよね。
そりゃ、他のことをしていた方が、ラクかもしれません。
行為自体に苦痛を感じる場合は、喜びどころじゃないですしね。
結局のところ、自分の考え方ひとつ……という、身もふたもない結論になってしまうのですが。
でも、他人を変えるのは、悲しいかな非常に困難ですからね。
比較的簡単なのは、自分を変えること。
勿論、学校など狭い人間関係の中だけに閉じこもっていると、他人からの悪し様な評価が、さらなる攻撃に転換されることもあるでしょう。
会社ならば、自分が壊れる前に、そんなコミュニティからは退散した方がいい。
所詮、人間の集まりにすぎませんから。
ご近所づきあいのように、すぐに逃げ出すことが困難であれば、他にコミュニティに自分の居場所を見つけるとかですね。
もっと評価されたいと思うなら、例えば自分から、他者を評価しにいくとか。
誰でも、いいところの一つや二つは、すぐにおいて思いつきますから。
などというように、考えれば考えるほど、次々いろいろ出てきます。
今、これを読んで下さっているあなたも、ご自身の意見をお持ちでしょう。
そういうふうに考えることの力についても、感じてしまう今日この頃です。