『バケモノの子』を私が紡ぐなら、一郎彦のお話にするだろう
こんにちは、ほんのよこみちです。
金曜ロードショーで見た『バケモノの子』について、ずっと考えてました。
以下、ネタバレ満載ですので、見ていない方はご注意下さい。
私なら、一郎彦が自分を取り戻していくお話にするだろうなぁ!
この物語は、九太(蓮)と熊徹を中心に進んでいきますがね。
九太と一郎彦は、鏡合わせみたいな状態でしょう?
ともに、人間界での養育者を失い、バケモノに拾われて養育された子。
九太はギャングエイジの年ごろでしたから、生意気ざかり、熊徹に噛みつきまくりで、本音を隠すことなくぶつけます。
そんな九太を、態度が悪いと叱りつけるのではなく、熊徹は気に行って受け止めます。
一方の一郎彦は、乳児の頃に拾われ、バケモノの子として育てられたます。
一郎彦の養父・猪王山は、バケモノ世界のいわばエリートみたいなものですから、一郎彦も、父に恥じない息子になろうと、努力していたものと思われます。
でも、しょせん人間の一郎彦には、父のような鼻も牙もありません。
しかし、猪王山は一郎彦が人間であることを隠し続けたため、一郎彦はバケモノの子として生きる以外の選択肢を奪われた状態で成長します。
ストーリー上、猪王山は品のある人格者で、熊徹は駄目駄目おやじみたいに描かれていますが、実は逆なんじゃないかと思っています。
つまり、生意気なよその子(異種の子)を引き取って、その子の本音を受け止め、かつ、その子の長所で学ぶべきところがあれば学ぶ、それってよほど懐の深い人間(バケモノ)じゃないと、出来ないことではないでしょうか?
猪王山のように、バケモノの子として努力しろ、みたいに指導するのは、実は簡単なことです。押さえつけるだけだから。
猪王山が見ていたのは、一郎彦ではなく、小さな生き物を拾って育てている素晴らしい自分自身、であるとも言えます。
もっとも、子どもの名前が「一郎彦」「次郎丸」ですから、バケモノ社会にも家制度に近い概念が入り込んでいるものと推測されます。
その上で、よその子(異種の子)に一郎彦と名付けた懐の深さは、感じられます。
お母さんもすごい!
自分が産んだ子を「次郎丸」と、スペア扱いで納得するのですから。
生物としては、自分の遺伝子を持つ自分の子を優先させたがるでしょうに、あくまで長幼の序で、よその子(異種の子)を跡継ぎとする。
迷いやためらいがあっても、当然でしょうに。
まっすぐに成長した九太と、闇を抱えた一郎彦。
この違いは、彼らの本音を養父が受け止めてくれたかどうか、だと思われます。
一郎彦の闇は、養父・猪王山が熊徹に倒されたからではなく、対等の存在として本音の対話をしている熊徹&九太の偽親子に対する、敗北感ですよね。
養父と自分とのつながりが虚構であると、一郎彦はずっと感じていたのではないでしょうか。
それでも、自分たちの方が強い、だから自分たちの方が正しい、そう信じていたものが、猪王山の敗北によって全否定されてしまう。
本当は、一郎彦だって悪態をつきたかった。
すねたり反抗したりしたかった。
それでもお前が大事だと全肯定して欲しかった。
バケモノでなくとも大事な子だと言って欲しかった。
その、ずっと欲しかったものを簡単に手に入れている九太と師父熊徹が、自分の心の支えであった養父・猪王山を敗北に至らしめた。
なにがなんだかわからないままの犯行、ではないでしょうか?
実は、このストーリー上、最も闇が深いのは、ヒロインである楓だと思われます。
親の望むいい子を演じるのに疲れ、がんばって勉強して、特待生で大学に入ることを望み、あとは好きなことを勉強して好きに生きたいという少女。
この時点で、いい子でいるのに疲れたと言いながら、優秀な成績で大学合格を目指すという、親が望むレールの上をそのまま走っていることに気づいていない。もしくは承知の上で、それ以外の選択肢を考えていない。
彼女は蓮(九太)に、高卒認定試験を受けて大学に進学することをすすめます。
みんなが歩いているいい子の道に、蓮(九太)を引きずり込もうとしていますが、彼女に悪気は全くない。
気づいていないだけに、闇が深いです。
好きなことをやりたいと言いつつ、そのやりたいことが一切描写されていないのも、闇の深さを伺わせます。
これ、社会に出たら、やりたいことがわからなくて、とりあえず嫌々ながら会社に通って毎日が終わる……っていう泥沼展開が待っているんじゃないでしょうね。
それを、当たり前のこと、として思考停止して、疲労が蓄積していく、というような。
私も我慢してるんだから、みんなも我慢するのが当たり前でしょ? って、ほら毒親予備軍のできあがり♫
『バケモノの子』は、エンドロールの後に、真のストーリーがあると思います。
猪王山夫妻は、一郎彦と対話を繰り返すことができるのか。
蓮(九太)は、熊徹にしてもらった本音の対話を、楓対しには受容者として行うことができるのか。
これを書かない限り、この物語は終わらないと思います。というか、私の中では終わりません。
あとは我々が、この人間世界で紡ぎ続くべき物語なんでしょうけど。