ほんのよこみち なブログ

元不登校の高校生と、ひきこもり→就労準備中の子を持つシングルマザーが、このくにで生きることを考えながら、本と好きなことを語ります。

不登校の子の未来のために、今を許容すること

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ほんのよこみちです。

はてなブログProから、無料のブログに戻しました。

以後、おつきあいいただけますと幸いです。

 

さて。

ネット上でも、不登校の子を持つ親御さんを、多くお見掛けするようになりました。

コロナ禍で、登校しなくてもよかったのが、登校を迫られる状況に戻り、辛い毎日を送ってらっしゃる方も多いのではないかと思います。

 

私も、上の子が初めて学校に行かなくなってから、早10年。

学費の高い私立通信制高校に入れたものの、行かなくなってから早7年。

当時は、なぜ登校しないのか、できないのか、わからなくて、相談する相手もいないし、親がパニックになっていましたね。

 

年間100万の学費を、通わない学校に払い続けるのが怖くて、1年で退学させてしまいました。

だって、なけなしの貯金をドブに捨てたら、いざという時に身動きできなくなると思ったので。

 

でも、本当は、当時がいざという時だったんだと、今になってみればわかります。

 

上の子は、学校に通うことが嫌だと言って、中退したあと、ひきこもりました。

フリースクールに体験入学させてみましたけど、駄目でした。

もう少し大人向けの、フリースペースにも通わせてみましたが、結局行かなくなりました。

 

まあ、フリースペースの方はしばらく通って、そこから紹介された会社でインターンを2年くらい経験したんですけどね。

インターン先の会社で正社員を目指したいって、頑張っていたんですけどね。

外出不安から、体調を崩すこともしばしばで。

結局、2年間タダ働きをした挙句、アルバイトとしても採用するつもりはないといわれてしまって。

会社から提示されたのが、アフィリエイターとしての契約だったので(しかも要出社の平日半日拘束)。

 

その後またひきこもりに戻り、昨年あたりから、就労移行支援事業所でPCの勉強などをお世話いただきながら、就職準備をする予定でした。

コロナがなければ。

 

 

 

確かに、上の子は、幼少期より、他のお子さんと同じようにするというのが苦手な子でした。

保育園で、お習字をやりましょう~という時間でも、「やりたくない」と主張する子で。

小学校に入ってからも、授業に集中することができず、学級崩壊を起こす側の子でした。

(この辺、家庭環境にいろいろあったので、だから仕方ないと、精神科医にも言われました)

 

どこかで間違えた……というより、最初から仕方なかったのかなあ、とも思います。

 

でも、「親のせいで自分の人生は狂った」って本人が思ったところで、どうにもならないんですよねえ。

 

 

 

家の中で、ネットに常時接続しているような状況では、いろんな情報が上の子の目に飛び込んできます。

いろんな人と知り合うこともできる反面、いろんな人の情報も入ってきます。

自宅でリモートワークで働いている人。

フリーランスで稼いでいる人。

会社に行かなくても働けるというのは、啓示だったことでしょう。

そのためのスキルを身につけるべく、頑張っていました。

 

ただ、そういうスキルは簡単には身につかなかったんですね。

そもそも不登校で、学習の積み重ねがない。

知識も教養も、恐ろしく偏っている上、薄っぺらい。

でも、ネットでいろんな人を見ている分、プライドは高い。

 

 

 

否、プライドでも高くなければ、やってられなかったんでしょうね。

不登校やひきこもりの子たちって、自己肯定感が低く、自尊心はずたぼろだから。

自分には価値がないって、本当にすごく思っているんです。

そんなことないよって、いくら親が言っても、もうそんな言葉に意味はなくて。

坂道を転げ落ちるように、喧嘩ばかりが繰り返される。

 

 

 

だから、今、子どもの不登校で悩んでいる親御さんがいたら、今のお子さんの苦しさは、受け止めてあげて欲しいと思います。

「なんで学校いけないの?」

「なんで朝、起きられないの?」

「なんで、みんな我慢してやっていることが、普通にできないの?」

それ、お子さん本人が一番苦しく思っていることだから。

 

「いま頑張らないと、後で後悔するよ」

「世の中、そんなに甘くないよ」

私もさんざん言いました。

それどころか、最近も言ってます。

コロナ禍で、みんな仕事を求めている昨今、中卒のひきこもり経験者が、仕事を選べる状況じゃないじゃんって。

 

でも。

本人的に、できることを一つずつ積み重ねていくしかないんですよね。

わかります、頭では。

 

頭ではわかるんだけど、いつまでも養うのが当たり前、家事手伝いはやる暇がない(ネトゲで忙しい)のが当たり前、って押し通されると、腹が立つよね。

自分の人生に対して、自分で責任を持て、って言いたい。

「お母さんが○○やれって言ったから」って、人のせいにすんなよって。

 

 

 

まあ、これも我が家の一例ですから。

子育てに教科書は存在しません。

目の前の我が子に向き合い、自分の人間力すべてを使って、相対していくしかないんです。

本やネットに上がっている成功例を真似しても、それは本やネット上に上がった、よそのお子さんの成功パターンでしかないので。

我が子の成功ルートは、我が子の中にしかないんです。

 

 

 

ひとつ言えることは。

お金に余裕がある限り、高校に行かなくなっても、在籍させてあげる方がいいです。

たとえ学力が伴わなくったって、高校卒業資格を持っている子は、強い。

中学で不登校だったお子さんでも、高校をなんとか卒業したら、その後就職できてる……という例を身近に2例知ってます。

高校卒業できたということ自体が、本人の自己肯定感になっているのかもしれません。

 

 

 

最終的には、生きてくれてるだけでいい、と思うしかないんですよねえ。

親が死んだ後のことなんて、そんなの責任持てるかい? でいいんじゃないですかね。

人間、どんなふうに生きたって、いつかは死にます。

そりゃ、我が子には楽しく幸せに生きて欲しいと、どの親も願うと思いますよ。

ただ、親の思い描く幸せと、子どもが感じる幸せは、イコールにはならないので。

 

今を受け止めつつ、子どもの奴隷にはならないこと。

 

悩みながら、また毎日を頑張りたいと思います。

ご一読いただきありがとうございました。

 

 

はてなブログProからの撤退と、元不登校生の就職問題

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2カ月、このブログを放置しておりました。

この度、2年の有料契約期間が切れるため、はてなブログProから撤退いたします。

 

この2カ月の間、noteの方でちょっと書いたりもしておりました。

ほんのよこみち|note ←これですね。

しかし、思うように書けない。

なんでかなあ。

はてなブログの方が慣れてるし、書きやすいのかなあ、なんて思ったりもして。

 

でも、はてなブログはセンスを要求されるしなあ。

私は、野暮ったい画面しか作れないしなあ。

どう頑張ったって、かっこいいブログは作れんしなあ。

ジレンマですな。

 

そんなこんなで、このブログは無料サービスのブログに戻します。

 

私事ながら、下の子も高校生になったし、不登校記事が書けなくなってしまったが故のあがきをしておりますが、コロナ禍で別の問題も発生いたしました。

就労移行支援を受け、求職準備をしていた上の子の、就職絶望じゃんという現実ですね。

 

学歴もあり能力も高い人たちでさえ、コロナ禍で仕事を奪われている現在。

不登校・ひきこもりの発達障害の若者(しかも特別な能力もない)に、仕事があるのか?

……ないんだよ、掃除しか。(そして汚部屋主に掃除はできない……)

 

ということで、不登校・ひきこもり経験者の就職という問題について、今後向き合っていきます。

そういうブログに衣替えしていく所存ですので、興味を持たれた方はおつきあい願えますと幸いです。

別途、noteのブログは、人文学系のことを書く方向でいきたいと思います。

そちらもよろしくお願いいたします。

 ↓

https://note.com/honnoyokomichi

 

 

 

コロナ禍により、なかなか書けなくなりました

ほんのよこみちです。

コロナ禍により、なかなか書けなくなりました。

 

学校の分散登校も進んでいますが、まだまだ家族の在宅時間は多いです。

そして、私はテレワークではなく、出社組。物流業界ですから。

それがどうなるかというと、PCを立ち上げる時間がないよ! ということに。

 

母親なので、子ども優先なのは当たり前です。

だって、子どもが一番大事だもん。

隙間時間を縫って、本も読みたい。

読書は人間の基本ですから。

そうなると、ブログ更新の時間が取れなくなっていくんですね。

まあ、今年に入り、更新頻度がなかなか寂しい状況ですから。

 

加えて、はてなブログって、特に、読んでくださる方のためになるような記事を書かなきゃ……というプレッシャーがあります、一応。

最低でも、自己啓発本レベルの内容でないと……というような。

ただ、そういう文章を書くことの限界も、感じずにはいられません。

 

だって、サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ (ヴィレッジブックス)』を読んだんですが、書けることが正直なくて……。

面白かったです、で終わったんじゃあ、小学生の読書感想文にも劣るよ。

 

なので、noteで気楽にこんなの書くことにしました。

note.com

 

そして、はてなブログの有料サービスを辞めて、無料に戻します。そのうち。

書けないものに、料金を払い続けるような余裕もないので。

すみません、URLが変わります。

 

はてなブログは使いやすいし、実はうちの子もこっそり読んでるみたいなので、好きなんですけどね。

すみません、迷走してます。

 

本当にやりたいことは何なのかって考えたときに、自己啓発とか書くことじゃないよなあというのもありまして。

莫迦をやってみたくなったんですね。

ライ麦の記事を、もっとあほにしたようなのを。

 

www.honno-yokomichi.com

 

生きているうちに、いろいろやってみたいので。

すみません、暴走します。

 

だってさあ、ちょっとやってみたいことがあるなって思ったら、挑戦しないと損でしょう?

そのうちそのうちって思ってる間に、年とって、目が見えなくなったりするんだもん。

私も緑内障抱えてるし、今はまだ症状出てないけど、発症したら近視自体も進みますって言われちゃっちゃあ、今しかないじゃん! って感じ。

人生なんて、あっという間だかんね。

若い若いって思ってたら、すぐにおじさんおばさんだよ。

そして病を得て、残り時間を意識せざるを得なくなるの。

 

今、この記事を読んでくださってる方で、挑戦をためらっている方がいらっしゃるなら。

とにかく一歩を踏み出してみましょうよ。

一気に崖から飛び降りるようなこと、やらなくていいから。

毎日少しずつ、行動を変えてみるとか。

我慢しないで。

諦めないで。

下手でもいいじゃん、困るのは自分だけだから。

継続することで、必ず自分なりの上達はあるから。

 

お互いにがんばりましょう。

ありがとうございました。m(_ _)m

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか』をツッコミながら読む。

ほんのよこみちです。

(ブログをこの文章から始めるので、「ほ」と入力したら大抵上の文が出てくるんですが、前の記事で「ホールデン」ばかり入力してたら、一気にホールデンが上に来ちゃってました^^; 恐るべし『ライ麦』パワー💧)

 

一昨年、出歩くたびに買い込んで積読にしてたビジネス本も、いい加減読まんと……ということで、読みました。

 

 

下の子とイラスト系の高校を見学して回っていた時に、なんとなく買っちゃったんですね。

絵を学ぶなら、やっぱり美意識関連は抑えんとな、と。

 

で、この本を読んで、私なりにまとめると。

  • 戦後の日本の会社経営は、もう古い。
  • 小さなムラ社会(会社内)ルールに従うにではなく、王道をゆくべし。
  • そのためにも、哲学は必須。
  • 絵画・小説・詩などの芸術から、観察力・想像力・表現力を学べ。
  • センスの良さがなければ、何も売れない。

というようなことですかね。

 

それってどういうこと? と思われた方は、上の囲みの中のタイトルをクリックして、買って下さい。kindle版ですけど。

 

ビジネス書としては売れた本のようで、2018年のビジネス書大賞・準大賞のようです。うちの本にはそういう帯がついてます。

読者層は、大企業に勤めるエリート層……ということですけどね。

いや、でも、マンガ版が出てるあたりどうなんだろう。

 

 マンガと図解が必要なのか?

大丈夫かよ、日本のエリートさんたち!

 

エリート層向けに書かれている本ですから、ことあるごとに読者層をヨイショしてます。

ビジネス書によくあることですけど、ターゲット層以外眼中なし! という書き方を結構されていて、想定外の読者層である私などは、だいたいツッコミ要員としてうずうずしちゃいますね。

 

仕事のために小説や詩を読んだり、美術館に行ったりするのも、いや、もう、その時点でちょっと残念なんでは?

仕事=効率、がちらちらしたら、意味ないから。

 

いい年した大人に「小説を読みましょう」なんて言うより、文科省に訴えて「国語の教科書に小説を増やす方が、国益にかないます」でしょ?

ああ、まあ、それじゃビジネス書にならんか。

 

システムを変えよう、と本書で訴えておられますが、つまり日本のシステムがどうにもならないポンコツだってことだし、そのシステムの上に胡坐をかいてるのが政府だし、国益より私益が優先する政権だしね。

まあ、一朝一夕にはどうにもならんって前提でしょうけど、やっぱりなあ。

マンガと図解が必要な国民性だもんなあ。

著者も「一粒で二度おいしい」だったのかなあ。ホントに?

 

ただ、今の日本社会(労働社会)が、労働者主体になっていないから、このシステムを変えるべきだという考えには、同感です。

この本は2017年の本ですが、奇しくも今年のコロナ禍で、社会のありようや働き方は変わらざるを得なくなりました。

私自身、この急激な変化にどう対応すべきなのか、てかそれ以前に、子どもらのメンタルやばくて急務はそっちやし、という状態。

 

まあこんな時代にビジネス書を読みまくっても、そこに書かれているのはだいたい古い世界のノウハウだから。

ご自身のこれからの肥やしになるような、哲学や文学や詩を読んだり、絵画を観たり、音楽を聴いたり、舞台(今はまだ厳しいかもしれませんが)や映画を観たりして、豊かな人になることをおすすめします。

そういうことをしましょうって、この本にもありますしね。

 

あれ? 大いなる矛盾?

 

ありがとうございました。m(_ _)m

『ライ麦畑でつかまえて』を人生初読して考えた、発達障害に限らない、人間の面倒くささ。

ほんのよこみちです。

51歳にして、人生初、『ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)』を読みました。

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)
 

 

いやあ~、もう、面倒くさい子ですね、ホールデン・コールフィールドという子は!

読みやすい文章なのに、延々とホールデンの愚痴が並んでいるという、この苦痛!

若い頃に読んでたら、絶対途中で投げ出していました^^;

 

だって愚痴ってばかりのわりに、ホールデンって愛されてるじゃん?

そもそも、寮生活をしてまで学校に行かせてくれる親……なんて、日本の地方出身の女子からしてみたら、めっちゃいい親ですよ?

自宅通学が最低条件……という現実に、私も含め、多くの友人が進路志望を変更しましたもん。

なので、10代の頃に読んでたら、甘ったれんじゃねえ! って、叫んでたと思う。

 

でも、ホールデンの親世代になって読んでみると。

この、どこかでよく見たことがあるような子の親をやるのは、さぞかし大変だろううなあ、とまずホールデンの親に同情しました。

ライ麦』は発達障害の子の話である、というのは、読む前から耳にしていましたが、読んでみると「うちの子もこんな感じだったかも……」

発達障害であれば遺伝性ですから、この面倒くさい思考パターンも、この子の所為ではない……。

 

読みながら、ホールデンが悪態をつく相手の子に対し、

「ごめんね、悪気があってそういう口のきき方をするんじゃなくて、この子は発達障害だから、ついそういう口のきき方をしてしまうの。

嫌な思いをさせちゃったね、許してね」

と謝って回る私がいました。

なぜ(・・?

母親だからさ!

 

でも、発達障害は遺伝性なので、つまりは私にもこういう面倒くささってあるんだよね、そうだね、今も面倒くさいけど、若い頃は更に面倒くさかったよね、友だちって神さまだよね、……等々、ドツボにもはまり(~_~;)

これは我が身、と考えたら、さらに読むのが辛くなりました。

 

やっぱり人間ですからね。

自分の嫌な部分を突き付けられて、平然としていられるほど、できた人間ではないので。

でも、あっさり退却してしまうのは、母親がすたるしな。

 

そう思いつつ読んでいたら、だんだんホールデンが可愛くなってくるじゃないですか。

不器用で、ヘタレで、寂しがり屋で、他者を貶めるほどに自己肯定感の低い、弱くて小さな子ども。

かまってほしくて自己アピールするけど、相手に求めるのが自分の人格全肯定だから、そんなの他者に望むべくもない……。

 

ホールデンが未就学児だったら、良かったんですけどね。

あいにく彼は成長してしまった。

 

自己肯定感の低さには、学業の失敗もあるわけで、これは学校制度の在り方そのものの問題性もありますよね。

まんべんなく好成績を求められるエリート養成所という側面だけで、いいのか。

学業エリートではない子どもたちにも、それぞれの能力に合った学びと、幸福な人生を送る権利はあるのではないのか。

これは本当になんとかしたい問題なのですが、発表から半世紀過ぎても、同じ問題に直面する若者がいるこの現実!

オンライン授業だったら、ホールデンももう少し気楽だったかもしれませんね。

 

というように、私は発達障害ホールデンとして最後まで読んでしまいましたが。

実際、読み終わってから日常生活を送っていると、今度はいろんな人の愚痴に焦点が集まるようになってしまいました。

なんか皆さん、他人の言動を愚痴ってばかりじゃないですかね?

 

これは、思っていた以上に発達障害の人が多いのか?

それとも、ホールデンは別に発達障害じゃなくて、『ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)』も普通の若者の苦悩話で、人間本来の姿が、非常に面倒くさいほどに愚痴っぽいだけなのか。

 

ひとつ言えることは、こんな面倒くさくて鬱陶しいホールデンの一人称視点で、物語を書ききったサリンジャーってすごい、ということでしょうか。

単純に、心が折れなかったことに敬意を表したい。

それも映画を観るような文章で、読みやすいし、読みやすいって小説に対する感想としては、必ずしも誉め言葉にはならないとわかっているけど、これで文章が難解だったら、心折れてる、読者が。もっと。今以上に。

 

小説ってやっぱりすごいなあと、『ライ麦』を読んで思いました。

作家の文章力って、すごいね。

そこにいるうちの子みたいに、ホールデンを描いちゃうんだもんな。

だから母ちゃん、打ちのめされちゃったよ。

 

賛否分かれる『ライ麦』ですが、読んどいて損はないかなあ、というのが正直なところです。

辛くても、自分がイライラしたときに「あ、ホールデンかも」って思うことで冷静になれるなら、人生の肥やしになってます。

また他人の愚痴も「仕方ないね」でスルー出来るなら、イライラせずに済むしね。

ま、そんなにうまくいくなら、誰も悩んだりせんわい! はい、そうですね。その通り。

 

あ、私、ずっとホールデンを「面倒くさい子」扱いしてますけど、それはもう、彼に感情移入できないほどなんやかんや経験したからで、感情移入できる人は、どうぞして下さいm(_ _)m

それは、若者の特権です。

若いうちにしかできないことは、どんどんやりましょう。

感情移入するって、めちゃ大事なことやし、それが出来るから、他者の痛みも想像できる。

偉そうにしている大人たちも、大概面倒くさい子どもだったんだって思えば、いや、今や面倒くさい大人かもしんないけど、世の中ホールデンばっかりじゃん! って思った時点で、あなたも私もホールデンだから(^▽^;)

 

ライ麦』ってホントすごいですね。

最後までちゃんと読めて良かったです。

ありがとうございました。m(_ _)m

 

 

 

『台湾の歴史と文化』を読んで、その複雑な歴史と、日本と言う立場を考える

ほんのよこみちです。

前回『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』を読んだ後、台湾のオレンジ学生運動が気になり、この本⤵を読みました。

 

 

地理的・歴史的に、日本人から見た台湾を描く

この本は、台湾史の教科書というより、地理的・歴史的側面から、且つ日本人たちが見た台湾の姿を描く……という構成の本でした。

 

この本を読むまで、実は、台湾の東半分は山岳地帯ということも知らずにいた私……💧

台湾が予想以上に多民族社会で、漢民族が移住してくるより前から、東南アジア系の先住民族がいて……なんてのも、この本ではじめて知りました。

え? 知らないのは私だけ??

 

先住民族の人たちは文字を持たなかったため、歴史として残るのは、オランダが占拠した17世紀からなんですね。

そのあと、鄭和が来て、清朝が攻めてきて、日本に割譲されて、国民党が来て、1987年まで戒厳令が続く……。

 

ちょっと、大変な歴史ではないですか?

常に、よそから軍事力持った連中がやってきて、移民もばかすかやってきて、そのたびに元からいた人たちは、すみっこに追いやられたり、服従を耐え忍んだりして、生き延びてきた……。

日本人である私が言うのもなんですが、あんまりではないですか?

 

そして今も、中華人民共和国との間の問題があり、国連に加盟することすらできない。

地理的に、とても微妙な位置にあり、海運の要衝でもあったことから、こんな過酷な運命に翻弄されてきた台湾。

 

この本では、そんな台湾の日本統治の時代に、日本から赴任してきた教育者たちが、台湾の歴史や文化を守ろうと活動しながら、現地の人々と交流を深めていく姿も描いています。

というと、ちょっと「日本人いいね!」論調かよ……という気もするんですがね。

ま、そういう趣も、無きにしも非ず……ではあります。

 

日本統治時代の台湾の日本人教師たち(一例)

この本を読み進めていると、何人かの日本人教師たちが、主人公のように描かれていることに気づきます。

彼らと、現地台湾人の若者たちによって、草の根活動的につながっていく、台湾原住民族の文化・風習・言語の保存プロジェクト……。

 

でも、日本統治時代に、現地の民俗文化を保護って、ちょっと植民地政策のイメージとは違うなあという気がしました。

しかも1930年代。

少々牧歌的な雰囲気さえ感じます。

 

ひょっとして、台湾が下関条約で割譲されたことや、地理的な要因があったんですかね? 

つまり、日本政府として、台湾は切羽詰まった場所じゃなかった?

 

切羽詰まった場所がどこかと言えば、中国とか東南アジアとかを思い浮かべます。

激戦地と言えば、南アジアもそうですね。

でも、台湾にはそこまでの緊迫感がなかった。

大陸とは離れた島で、19世紀末に割譲されてたし、植民地経営としてのインフラ整備も進んでいた。

だから、人員配置にしても、そこまで重要視されていなかった?

 

当時、台湾で学校の先生をやるような人は、本土での出世コースから外れた人たちだったようです。

政治権力闘争には興味がないけれど、学問は好き、というタイプ?

 

どうせ出世が望めないから。

台湾で、現地の民俗学研究に没頭して、台湾の人々と友好を深めていった方が、人間らしく生きられる。

 

そういえば、同じような現象を『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』でも読みました。

天安門に行く学生たちを、本当に親身になって考えていたのは、党での出世コースから外れてしまった先生たちだ、と。

 

出世って、なんなんだろうな、と考えてしまいます。

人間らしさと引き換えじゃなきゃ、手に入らないものなんでしょうか。

私もとっくに出世コースから外れてますが、お偉いさんの顔色をうかがって辟易するくらいなら、本読んでた方がいいしな。

どうせ一度しかない人生だから。

 

こういう草の根活動的な民俗学研究者によって、台湾の文化が少しでも守られたのなら、本当にありがたいことだと思います。

それで、まあ、当時の日本がいろいろやってしまったことが、チャラになるわけじゃないんですが。

文化は歴史遺産でもありますからね。

 

台湾史から学ぶ、多民族国家の政治

 台湾はありがたいことに、親日国(地域)です。

でもそれは、日本統治時代の植民地政策が良かったからではなく、国民党の軍事政権がひどかったから。

戦後40年以上、戒厳令を続けるような政権が続いたために、相対的に日本を再評価していただいたというだけの話。

 

日本だって、山岳地帯の先住民族を虐殺したり、日本語を強要したり、いろいろやってます。

90年代くらいまで、台湾の高齢者で日本語の堪能な方は、結構いらっしゃったようですし。

『幽幻道士』のテーマソングは、鳩ポッポですしね。 

 

ああ、話がそれました。

 

つまり、力で押さえつける政策は、批判を生むよということですね。

日本の植民地から解放されて喜んだのもつかの間、後から入ってきた国民党軍の圧政に苦しむ時代が続きました。

軍事政権時代は、中国共産党政権と大差ないくらい、自由もなく、命の安全もなかった。

故に台湾人は、民主化と選挙のありがたみを、嫌と言うほど知っている。

李登輝氏以後の総統は、すべて選挙で選ばれてますが、日本とは関心の高さが違います。

 

仮に、蒋介石の軍事政権が民衆に優しいものだったら、今の台湾総統蔡英文氏じゃなかったかもしれません。

今も、蒋介石の身内が、政権を握っていたかもしれません。

 

だから、独裁者になりたい方々は、我欲を抑え、民衆の声に耳を傾けることですよ。

民が飢えたり苦しんだりしない社会を。

誰もが公然と差別されることのない社会を。

諸外国と対話して、友好関係を築ける社会を。

歴史から学び、これからのビジョンを描ける社会を。

最低限、これらを意識してつくり続けていけたら、長期独裁政権も夢ではないかもですよ?

 

我欲が飛び出て、民を虐げることが慢性化したら、覚悟を決めることですね。

仮に民が虐げられることに慣れ切ってしまって、内政的に引きずりおろされることがなくとも、国力は絶対的に衰えていきますから。

荒野の中の大将を気取ったって、みっともないだけじゃん。

 

我が国の国力も、ここ30年で衰えています。

さあ、どうしますかね。

 

ということで

本書には、台湾の街並みを伝える旅行記的な表現も一部あるんですが、そこはやっぱり現地に行ってみたかったなあ……と、文章の限界を感じました。

でも、もっと深く台湾のことを知りたくなったので、うまくこの本にのせられている気がします……^^;

 

巻末に参考文献がたくさん載っているので、知りたい事柄から深めていくことも可能。

結構、この参考文献の紹介が丁寧なので、初心者にはありがたい限りです。

本音を言えば「知りたいことが多すぎて、金がまわらん💧」なんですがね。

 

同じアジア人同士、不幸な過去はありましたけど、もっともっと隣人として知りたい台湾。

仲良くしていけたら幸いですね。

ありがとうございました。m(_ _)m

 

『八九六四』を読んでから、あの頃のことをずっと考えている。

 ほんのよこみちです。

八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』を読んでから、ずっとあの頃のことを考えています。

 

八九六四 「天安門事件」は再び起きるか

八九六四 「天安門事件」は再び起きるか

  • 作者:安田 峰俊
  • 発売日: 2018/05/18
  • メディア: 単行本
 

 

あのとき、天安門にいた若者たちの声が、ここにある

この本には、あのとき天安門広場にいた人たち、直前や直後に行った人たちなど、1989年6月4日のあの時代に生きた人たちの声が、あります。

若い人たちには、歴史の教科書で見た程度かもしれない、天安門事件

 

でもこの本を読むと、ホントに普通の学生たちが、半ばノリで突き進んでたんだなっていうのが、よくわかります。

と言うと、酷なようですけど。

でも、今ほどピリピリした時代ではなかったのも、事実。

経済的には、西側諸国に後れを取っていた頃ではありましたが、人民は一様に豊かではないけど食える……という状況でしたからね。

ましてや大学生は、エリート予備軍。

理想と元気にあふれている。

 

私は当時二十歳で、もろに天安門同世代なので、読みながらあの時代を思い出しました。

あの頃、中国だけじゃない、韓国でも台湾でも民主化運動があったように記憶しています。

日本人だけ、こんなのほほんとしてていいの? と焦ったんですよね。

 

当時、日本では消費税導入がありました。

それまで贅沢品にかけられていた物品税を廃止、所得税累進課税も緩和。

税の徴収対象が、金持ちから庶民に移行し始めた、その時代です。

大金持ちと小学生が同じ税率って、ちょっと子どもがかわいそうじゃない? って思ったんですけどね。

私自身、親と意見対立して経済的余裕がなかったので、3%だってきつかったし。

でも、デモをしようとか思わなかったんですよね。

消費税は、そのまま現在に至ります。

 

天安門の失敗した理由

天安門事件の失敗した理由についても、この本で向きあうことができます。

  • 学生たちにプランもノウハウもなかった。
  • 本気で政権を打倒するつもりはなかった。
  • デモの意味がわからないまま広がり、大衆がついてこれなかった。

等々。

 

当時の大学生と言えば、エリート予備軍。

そもそも中国は、科挙合格者が長きにわたって政治を指導してきたお国柄ですから。

文化大革命の時代を除けば、高学歴・知識人が圧倒的に強い社会……というのを、再認識いたしました。

 

だから、非知識人層との間には、壁がある。

その格差の壁が、デモの失敗にもつながった。

 

エリート予備軍とはいえ、学生たちは社会のしがらみに囚われない、ある意味自由でいられる立場。

だから、社会人エリート層からは「甘い」という目で見られた。

人脈を繋げられなかったのも、敗因の一つ。

 

でも、それらは結果論で、当時の学生たちを批判する資格は、当時何もしなかった私にはありません。

すごいね、と思った。

中国人は行動力あるなあ、と思った。

日本も、政治の潮目が変わる予感がしてた。

でも何もせずに、テレビの報道だけ見てた。

天安門の学生たちに仮に非があったとしても、戦車で武力弾圧するのは駄目です。

 

天安門事件がその後の世界史を変えたのは、周知の事実

天安門のデモは失敗し、今も共産党の独裁体制が中国では続いていますが、あれ以降、世界史が変わっていったのは、周知の事実ですよね。

ベルリンの壁崩壊。

東側諸国の民主化

ソ連の解体。

 

湾岸戦争で、多国籍軍なるものができたとき、夢かと思いましたもん。

東側と西側の国々が、共に戦っているなんて!

(……まあ、10数年後のイラク戦争につながったりもするんですけどね。)

 

だから、あの事件は決して無駄じゃなかったと思うんですが。

でも、亡くなられた命は、戻りませんし。

人生を狂わせた中国人が多くいることも、あらためて知りました。

 

世界は民主化したのに、当の中国は民主化できていない。

それでも世界第二位の経済大国になって、30年前に夢見たような豊かな暮らしは手に入れている(人もいる)。

自由はないが、豊かさはある(ただし、エリート層のみ)。

非エリート層は、貧しい生活に耐えながら、政府にも追われる羽目になる。

 

なんか、納得できません。

自分の国が少しでも良くなったらいい、と、そう思っただけなのに。

うまく立ち回って、権力者の側についた人もいれば、つかまってぼこぼこにされた人もいる。

自分の身を守る知識と教養と人脈のある人だけが、豊かで安全な生活を送ることができて、それらのない人は、下手をすれば獄死。

天安門がなければ、ここまで締め付けが強くならなかったかもしれない、なんて!

 

国家権力維持にために必要なのは、国民の豊かな生活だけなのか

中国で同じようなデモは、もはや起こせないかもしれません。

なにしろ豊かになったので。

あの頃みたいに、民主化して豊かな生活を……なんてのはファンタジーだって、わかってしまったので。

 

東西ドイツ統一による格差は、やっぱり旧東側諸国の人たちには強烈みたいですね。

豊かになれると思ったら、2級市民扱いの差別と失業が待っていた。

それまでの知識や経験は、西側の世界に出たら、なんの役にも立たなかった。

自尊心の崩壊です。

 

そんな失敗に陥らずに、豊かな生活が手に入ったら、現状肯定したくなるのも仕方がないのかもしれません。

経済的豊かさと、国家に殺されない(ように自己防衛した上での)安全性。

民主主義を知らないまま育ったら、我々もそうなるのかもしれません。

なぜなら。

「世界で最も共産主義の成功した国」らしいですからね、当時の日本は。

 

でも、香港のデモや、台湾のひまわり学生運動を見てもわかるように、民主主義ってそんなもんじゃないんですよね。

国家に殺されない、なんて当たり前のことだし。

自己防衛しなきゃならない、なんて、安全でもなんでもないし。

 

やばいですよね。

民主主義について、教科書以上に自分で学んでいかないと!

興味がない、なんて言ってる向こう側に、未来の姿があるわけですから。

 

やっぱり名君に支配されるのはラク、だと思いたがる人間

日本人もそうですけど、苦労して民主主義を手に入れていない国、もしくは民主主義を知らない国の人たちって、名君に支配されるラクさから脱却しづらいのかな、と思います。

いや、だって、名君に支配されるって、ラクなことこの上ないんですよ。

考えることを全部名君がやってくれるから。

名君の指示どおりに動けばいいし、その指示が間違ってるとは思えない。

自分が考えるのは、半径2メートルくらいのことでいい。

奴隷根性ってやつですけどね。

 

今、選択したがらない若者が多いっていうのも、結構危険だなと思うんです。

失敗したくないから、自分で選択したくない。

流れてきた情報を消費するだけの、器でいたい。

だから、いい情報を流してほしい。

 

それは、独裁者のいいカモですが、大丈夫ですか?

 

もう一回、地獄を見ないと駄目なんですかね。

1945年までの破滅を、振り返りましょうよ、せっかく祖先の残してくれた教材があるんですから。

反面教師として。

 

中国の人たちは、もう何千年も、支配者がいるのが当たり前で来てしまったので、その辺の諦めは、我々より強固なんだと思います。

支配者はどうしたっている。

ならば、その支配者とうまく折り合いをつけて、より多く旨みを得た方がいい。

たくましい根性だと思います。

 

でも、私はそれに倣うことができない。

どんな名君も、名君で居続けることは難しいし、名君の後継者が名君であり続けることは、さらに難しい。

命が奪われてしまったら、すべておしまいだから。

自由と人権は守っていかないと。

 

というようなことを、この一週間考えていました。

考えたからって、どうにかなるものでもないんですけど、考えずにはいられない。

見なかったふりは、もうできません。

 

天安門事件を知らない若い方にも、考えていただけたら幸いです。

ありがとうございました。m(_ _)m

今の本屋さん業界がどうなっているのか、もはやわからない。だけど、尊重したい。

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今週のお題「外のことがわからない」

 

 ほんのよこみちです。

今週のお題:外のことがわからない ということで、個人的に私が言いたいのはこちら⤵

本屋さんたち、どこまで疾走されてますか!?

 

私はテレワークとかではなく、毎日出勤しているんですが、自転車通勤で、自宅と職場との間に、行きつけの本屋さんってないんですね。

それで、かれこれ、もう2カ月以上、本屋さんに行っていない!

電車に乗って移動するのって、やっぱり怖くて。

なので、家にある本を読んだり、ネット通販で買ったりしています。

 

家にある本って、要するに積読本なので、それを読む時間が増えたことは、単純に嬉しい。

落ち着いて読めるので、理解や思考が深まる気もします。気のせいかもしれませんが。

それに、積読タワーが低くなっていくことは、やり残した宿題が片付いていくようで、達成感があります。

 

ただね。

本屋さんたち、今、どうしてらっしゃるんだろう……というのが気になるんですよ。

 

もちろん、気になる本屋さんのTwitterは、フォローさせていただいています。

フォローしてはいるんですが、自分が読書している間は、Twitterって見ないじゃないですか?

だから、ふと気づいたときには、好きな本屋さんたちが、いろんなオンラインイベントやってたりして、ちょっと出遅れた感がハンパない……💧

 

難しいですよね。

本屋さんたちが、生き残りをかけていろいろ挑戦されるのは、当たり前のことです。

私は読書が好きだから本屋さんも好きで、読書をしながら他のことはなかなかできない。

 

あれもこれもというのが欲張りなのはわかるし、自分の残りの人生を考えたら、読みたいと思った本は読んでおかないと!

もっともっと年とったら、新しい本を読む気力がなくなるかもしれませんからね。

読書好きの祖父が、晩年は本を買わず、好きな本を繰り返し読んでましたから。

 

頑張っている本屋さんは、できれば応援させていただきたいし。

できれば金銭的にも貢献したい。できる範囲で。

いい本にも出会いたいし。

かなうことなら、実際に手に取って見て見たいし、リアルに棚を眺めたい。

 

VRの仮想空間希望……ということになりますかね?

いや、でも、そこに行きたい本屋さん全部は入らんやろ……。

 

本屋さんという業界一つをとっても、こんな感じなのですから、外に出ないってホント、精神的隠遁生活のような気がします。

孤独ですよねえ。

でも反面、その孤独がラクだったりもするんですよ。

だって、自分の価値基準が自分自身になるじゃないですか。

 

外がわからなくて不安なのは、基準を外に求めたとき。

人間は、自分基準だけでは生きていけませんからね。

それでも、コロナ前のように、外基準の波間で溺れそうになることもない。

孤独でいる間は、どこまでも自分基準でいいわけですから。

 

でも、いずれまた、きっと外基準が標準の社会がやってくる、そう思うから、不安になるんですよね。

自分ひとり明後日の方向に走っていたら、どうしようって。

スタンダードがわからなくなっている、浦島太郎の恐怖。

 

だから、自分とは違う価値基準スタンダードの人に出会ったら、互いに教え合うとか、尊重し合うとか、そういった意識を持つことが、不安を和らげてくれるのかなと思います。

 

あの人、これもできないの? じゃなくて。

自分と違う価値基準を、否定しない。

自分とは違う時間軸を過ごしてきた人を、尊重する。

だって、自分とは違う発見を、してきているわけだから。

 

そんな覚悟を決めて、ひとり時間を楽しみたいと思います。

ありがとうございました。m(_ _)m

 

 

画像:リズム727さんによる写真ACからの写真

十二国記『白銀の墟 玄の月』①~④を読み終えて考える、人はどう生きるべきなのか。

 ほんのよこみちです。

十二国記『白銀の墟 玄の月』①~④を読了しました。

 

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)
 

 

白銀の墟 玄の月 第二巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第二巻 十二国記 (新潮文庫)

 

  

白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

 

 

白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

 

 

 とても読み応えのある4冊でした!

 

民衆の物語

今作には、民衆の登場人物が多く出てきます。

王でも仙籍の将軍たちでもない、名もなき民衆。

その名もなき民衆が、極寒の戴国でいかに生き、助け合ってきたか。

誰かに命令されたからではなく、心意気で、貧しきものや弱きものを助けてきた、その生き様。

いろんな人たちが登場してくるので、読んでて途中で名前がごっちゃになりました。

 

ストーリーとして一貫しているのは、王である驍宗を探し、戴国を取り戻すこと。

そのプロジェクトに、多くの民衆が関わっていきます。

本来、政治とは無関係なはずの民衆が、自分たちの命を第一にしつつも、無体な偽王に対する反骨心を消すことなく……。

 

きれいな言葉で語ってしまうには、いろいろ胸につかえるものがある物語なのですが。

名もなき民衆に焦点をあてた、名もなき民衆である、我々のための物語だと思います。

 

特権階級である者たちの覚悟

十二国記は身分制社会の物語ですから、仙籍や神籍などの特権階級が存在します。

まあどこの世界でも、そういう特権階級は腐っていくものなんですが。

それを放置していたら、王や麒麟が死んでしまい、国が改められるというのが十二国記の世界で。

なので、覚悟を背負った特権階級者が多いのが、このシリーズの特徴でもあります。

 

『白銀の墟 玄の月』でも、それは健在で。

というより、むしろ従来のそれよりもさらに踏み込んだ覚悟を、示しているように思えます。

天の理にも挑む、覚悟を。

 

こういうのを読んでしまうと、自分の生き方はこれでいいのか、考えてしまいますね。

利己主義すぎないか?

自分に都合よく、物事を改変していないか?

どこまでも自分に甘く、他者に厳しく要求していないか?

 

みっともない自分でありたくなければ、こういう格好いい生き方を心のうちに住まわせることが、近道なのかもしれません。

 

絶望の底に落ちても、希望を失わずにいられるか

魔性の子』の間の7年間、戴国の人間を支配していたのは、絶望でした。

その絶望よりさらに怖い絶望が、今作で描かれています。

正直、私なら発狂するか、死を選びたくなるような、絶望だと思います。

 

希望を失うな、という言葉は、すぐに言いたくなってしまう言葉ですが。

すべてを失っても、希望を持ち続けられるのだろうか。

そこまでの強さを、保ちつづけられるだろうか。

自信がありません。

 

年を重ねると、実は若いときより、絶望って身近だったりするんですよね。

死という絶望までの距離が、近いですから。

年々身体も衰えて、できないことが増えていくし。

 

十二国記の初期読者層は、40代から50代くらいかと思われます。

いわゆる中高年。

だからという訳ではないと思いますが、もう若いときのように、簡単に取り戻せない現実、というものも、今作では描かれている気がします。

それをどうとらえていくのか。

 

10年後、20年後とかじゃなくて、この1年をどう頑張っていくか。

目の前の一日一日を、どうすごしていくのか。

そういう現実がそのうち来る、その覚悟は、いずれ決めなくてはならない。

気づかぬふりをしていたいんですけどね。

 

今、この時代を映した現実感

『白銀の墟 玄の月』はフィクションですが、今のこの時代の閉塞感を、表していると思います。

腐敗とか、無気力さとか、差別とか。

ストーリー設定や細かいエピソードだけでなく、全体の構成としても、現代社会を表現されているように感じます。

 

我々は今、動乱のただなかにいるのだ、と。

 

小説は、自分が読みたいと思った時が旬、だとは思うんですが、時代の空気を感じるなら、リアルタイムに読むのが一番ですね。

てか、もうリアルタイムじゃないんですが。

発売は2019年秋だもんなあ。

 

私は、今、まだこの時期に読めて、良かったと思います。

小説の発売後に、確かにコロナ禍という歴史的出来事があり、それは現在進行形なんですが。

コロナ禍によって、別の腐敗が浮き彫りになってきたことも、また事実。

そしてそれらの問題は、未だ解決していない。

 

我々は実は、外から戴国を見ているのではないのかもしれません。

戴国の民のように、生き延びるためにできることをしつつ、各々政治に参加していかなければ。

大きな声に扇動されることなく、自分で調べて考えて。

 

そういった、これからの生き方を真面目に考えさせてくれる小説だと思います。

できれば多くの人に読んでもらいたい、十二国記

よろしくお願いします。m(_ _)m

ありがとうございました。m(_ _)m

どうしても読まなきゃいけない、と思った『「小児性愛」という病』を読了する。

ほんのよこみちです。

前回『エレンディラ』を読んで、どうしてもこれを読み終わらなくては……と思い、頑張って読了しました。

「小児性愛」という病 ―それは愛ではない』です。

 

「小児性愛」という病  ―それは愛ではない

「小児性愛」という病 ―それは愛ではない

  • 作者:斉藤 章佳
  • 発売日: 2019/11/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 読書ノートを振り返ると、ゴールデンウイークの頃に読み始めたんですね。

 

でも、読み続けるのが非常に苦しい本でした。

 

まっさらな子どもたちが、なぜ男の性欲の慰み者にならなければいけないのか。

 

愛?

愛しているのは、自分自身だけだろう?

 

自分のエゴを、もっともらしい言葉で飾って、抵抗できない相手に押し付けるんじゃねえ!

 

小児性愛」の実情を暴く

この本では、小児性犯罪加害者のための外来クリニックにおける現状が、まとめられています。

男性の、家庭外小児性加害者についてとりあげられていて、家庭内性加害者や女性の性加害者についてはとりあげられていません。

これは、著者のクリニックにくる患者の多くが、我が子に性犯罪をしないタイプであったり、女性犯罪者が極めてレアケースであるという実情から、あえて限定しているようです。

 

いや、でも、本当に、読むのが本当に辛くなるほど、加害者の身勝手な主張が並べられています。

それに比べ、被害者側のその後が伝聞でしか伝えられないという、その現実をどう読むか。

被害者に口封じをする加害者の、えげつなさよ。

さも共犯者であるかのように思いこませ、己の意のままにしようとするあさましさよ。

全員、死刑にしてもいいですか?

と言いたいくらい、はらわたが煮えくり返ります。

 

小児性愛の根本にある、男尊女卑

結局、根本的問題として男尊女卑があるんですね。

 

男の性欲を引き受ける存在としての女性。

男の優位性を守るための、無害な存在としての女性。

それらがかなわなくなってきているからこそ、子どもへと向かう。

 

なんなの?

それじゃあ単なるでかい子どもじゃん。

 

自分の思うとおりにならないから、自分の言うことをきいてくれそうな弱者(子ども)を、支配の対象にしてるだけ。

相手のためを思って身を引くとか、感情も行動も表に出さないとか、大人の愛なら、そういう分別があってしかるべきでしょう。

都合のいいときだけ大人で、都合が悪くなると子どもになるんじゃねえっ!

 

男尊女卑って、彼我の人権の差を、いかに我が事として受け止められるかだと思うんですけどね。

性差だから仕方がない、ではなくて。

これまでそうだったから、当たり前のこと、ではなくて。

 

その意識、女も持つべきだと思いますけどね。

男に養ってもらうのが当たり前、とかじゃなくて。

 

逆境体験が性加害者をつくるかもしれないが、だから仕方がないとする発想は間違い

実際、性加害者の多くに逆境体験はあるようです。

親から厳しいしつけという名の虐待を受けた経験がある、とか。

学校でいじめられた、とか。

女子に莫迦にされた、とか。

 

それらは同情に値しますが、だからといってすべてが免罪されるわけじゃないんですよね。

仕返しする権利なんてないんです。

ましてや、第三者である弱者を対象にしたら、100%犯罪です。

 

だったらやられ損だよって?

損か得かを、そんな短絡的なことでしか判断できないのは、残念なことです。

 

小児性愛加害は、依存症です。

ただでさえ逆境に苦しんできた人が、さらに依存症に苦しまねばならないなんて。

加害者数以上の、あまたの被害者が、苦しみ続けなければならないなんて。

違うでしょ。

 

アニメ・マンガを含む児童ポルノが、加害者のトリガーとなりうる現実

反対意見が出ることは、私も百も承知です。

でも実際、マンガやアニメを含む児童ポルノが、性加害者のトリガーとなっているようなんですね。

 

見た人すべてが加害者になるわけではない。

しかし、加害者はほぼ見ている。

これは、無視できない現実だと思います。

 

表現の自由はありますし、特にわが国では擁護されるべき分野であるとは思います。

しかし、ひとりでも被害者が出るなら、公共の福祉を考えるべき問題だとも思われます。

 

個人的には、ここ四半世紀くらいのアニメやマンガのキャラって、抵抗があるんですね。

幼顔で、身体は発達していて、デッサン狂ってるだろ? ってくらい、身体のラインが出る服の着せられ方をしていて。

アニメの声も、男に媚びるような無害そうな喋り方だったり。

いかにも、男にとって都合のいいキャラだよね、と。

 

それと児童ポルノは違うだろ? なんですけど、普通の、秋葉原電気街口にでかでかと出ているようなアニメがそうなら。

まあ、自ずと想像つきますわな。

 

以前、少女の裸体ポスターが張り出されて……というような問題もありましたけど。

それを見た性加害依存症者が、衝動を抑えられなくなるなら、それは張り出すべきものではない、ということです。

白い粉と注射器の映像が、NGなのといっしょ。

 

死ぬまで「辞め続ける」しかない依存症

小児性愛も、麻薬やアルコール、ギャンブルと同じ、依存症です。

だから、死ぬまで「辞め続ける」毎日を繰り返すしかない。

それは、地獄の日々だと思います。

 

そんな依存症患者をこれ以上つくらないためにも、日本の性表現って、もっと考えた方がいいと思うんですよ。

チャイルド・ラブドールも論外。

それもトリガーになりますからね。

 

そしてやっぱり、人権意識をもっと持つべきだと思います。

道徳で教えるなら、親孝行や友愛を越えて、人権なんだよなあ。

普遍的な人権!

 

男性の性欲って、誰かに受け止めてもらうしかないものじゃないんですよ。

分別のある大人なら、自分でコントロールすべきものなんです。

仕方ない、じゃないんです。

他者を傷つけてもいいもの、じゃないんです。

 

電車や駅での痴漢行為も、盗撮も、性犯罪ですからね。

ついやってしまう、やりたくなる、なら、依存症です。

いつでもやめられる、と思っていても、やめられないのが依存症。

地獄に落ちていい人なんて、ひとりもいません。

 

だから。

ほんっと女性や子どもの人権は、男性と同等にあるものと意識しなきゃいけないし。

外国人もそうだし。

LGBTの人たちもそうだし。

職業差別や年収での差別、その他あらゆる差別はダメなんですよ。

自分が消費していい他者なんて、この世に存在しないんです。

 

だから、この本を読むのはしんどいですけど、読まれてほしい本だと思いました。

ここまでご一読いただき、ありがとうございました。m(_ _)m

ガルシア=マルケスの『エレンディラ』を読んで考える、子どもと女性の人権。

ほんのよこみちです。

ガブリエル・ガルシア=マルケスの『エレンディラ』を、二度挫折しながら読み終えました。

 

エレンディラ (ちくま文庫)

エレンディラ (ちくま文庫)

 

というのも。

子どもの虐待がハンパなくて、読むのがすごく辛かったんです。

 

「奇跡の行商人、善人のブラカマン」どこが善人やねん

この本は、7つの小説がおさめられた短編集なんですが、6番目の「奇跡の行商人、善人のブラカマン」における虐待が、まずひどい。

 

どこが善人やねん? のブラカマンはどう見ても詐欺師で、主人公の「ぼく」を父親から買い取り、助手として使っていこうとするようなんですけどね。

でも、その思惑はうまくいかず、商売が暗礁に乗り上げてしまいます。

そして、すべては「ぼく」のせいだとして、ひどい虐待に走るわけですね。

目を覆いたくなるような、凄惨な虐待に……。

 

結末としては「子どもを虐待してはいけません」なのですが。

多分、ガルシア=マルケスもそう思っていたんだろうな、というのはわかるんですが。

ブラカマンは、小悪党でしたね。

 

エレンディラに対する虐待は、根も深く、後遺症もひどそうだと予想されるので、もうありえない

で、表題作でもある「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」ですよ。

エレンディラが祖母から受ける虐待のすさまじさは、ちょっと腹が立つどころの話ではありません。

 

まず、孫娘を使用人扱いだし。

少しの自由も与える気がなく、働かせ詰めという、ブラック祖母ぶり。

 

そして、エレンディラの不注意で、寝ている間に家が全焼してしまったため、その損害賠償請求を実の孫娘にするという……どういう鬼畜祖母なんだよ!

普通は「命が助かってよかった」じゃねえの?

しかも、財産分のお金を稼がせるために、孫娘に売春を強要するって、てめえの血の色は何色だよっ!

さらに言えば、その売春のさせ方が、さらに極道というか……。

行列ってなに?

人間扱いしてないにも、ほどがある(#^ω^)

 

「無情な祖母」とか「信じがたい悲惨の物語」とか、そんなおとなしい言葉で語っていいんですかね? このひどい性虐待物語を。

なんて言うと「風俗業だって、誇りをもってやっている人もいる」という意見も聞こえてきそうですが。

少なくとも、エレンディラに選択肢はなかったんでね。

その上、稼いだ金は。全部鬼祖母に持っていかれたんでね。

自由は一切なかったんでね。

この状況で、どんな精神が育つ?

 

幻想小説の中にある、消費社会と人権意識

エレンディラ』の中の短編は、どれもこれも現実から一歩はみ出した、幻想小説だと思います。

ある日突然、家の庭に年老いた天使がいた、とか。

普通の人とは思えない、大きな美しい男の死体があった、とか。

 

なんですけど、小説世界に生きている人たちは、どこか不機嫌だったり。

年老いた天使の扱いも、鶏舎の家畜のようだったり。

流れ着いた水死体の美男は、見つけた住民たちによって、ルックスだけのでくの坊ということにされてしまっていたり。

 

なんだろう、思うようにいかない現実への不満がまずあり、そのストレス発散としての消費行動が、ストーリーをつくっているように思えます。

老人天使見物とか。

水死体男の履歴を、想像して、物語をつくって、楽しむとか。

性欲の捌け口としてエレンディラを買う男たち……というのも、まさに消費行動ですね。

現実を生きる人間たちの弱さや醜さが、ぶちまけられたおもちゃ箱。

幻想の皮を被った、泥臭さ。

そういう時代であり、そういう社会だったんだろうなと、思います。

 

日本でも、今も子どもや女性の人権意識は低いですけど、昔はもっとひどかったですからね。

家族が食べていくために、娘を性産業に売るとか。

男子なら、十やそこいらで丁稚奉公に出すとか。

社会が成熟しないと、弱者の人権ってないんだなと、『エレンディラ』を読んであらためて感じました。

だから、上の世代の男性作家作品って、読むのきついんですよ。

現実を突きつけられるので。

 

文学は心療内科、と言われます。

考古学が外科で、歴史学が内科。

だから、人間を知りたければ、文学をやれと。

「ああ、こういうことか」と思いました。

 

何年に女性も参政権が得られたとか、いつごろフェミニズム運動が起こったとか、そういう歴史の教科書に載っているような記述では、わからないこと。

子どもの人権宣言なんてものが出るような背景は、どういうものかということ。

人間社会の意識というのは、文学にあらわれるし、また文学が、その後の人間社会の意識を牽引していくんだろうなと、思います。

だから、小説を読む意味があるし、感想を声に出す意味がある、と。

 

これからの作家さんに対する希望

なので。

これからの作家さんには、差別のない社会を描いてほしいな、とも思います。

SFでもファンタジーでもいいので。

女性が男性に、子どもが大人に、隷属するのが当然な社会ばかりを描かれると、現状肯定として刷り込まれるしね。

社会の不均衡を暴く作風って、そこには確かに価値があるんですが、二次虐待にもなるんですよ。

だから個人的には、なるべく差別や格差のない社会のお話が読みたいです。

ファンタジーでも。

 

ということで、ガルシア=マルケスを読むようになったのはここ半年のことなんですが、やっぱりいろんな作家さんの作品を読んでみるっていいですね。

とっつきにくい部分も確かにありますけど、視野は広がるので。

どうせ生きるなら、人間的に成長し続けたいじゃないですか?

頭のいい方々には及ばなくても、自分の足で、しまいまで歩いていきたいと思います。

 

ありがとうございました。m(_ _)m

十二国記『丕緒の鳥』を読んで考える、自分はどのように生きていくのか、ということ。

ほんのよこみちです。

十二国記丕緒の鳥 (ひしょのとり) 十二国記 5 (新潮文庫)』を読みました。

新潮文庫のナンバーでは5ですが、シリーズ全体の発表順は後の方なので、やっぱり読むとしたらこの順番かな、と。

 

丕緒の鳥 (ひしょのとり)  十二国記 5 (新潮文庫)

丕緒の鳥 (ひしょのとり) 十二国記 5 (新潮文庫)

 

 

十二国記は公務員の物語でした?

十二国記のシリーズ全体としては、王と麒麟の物語のようですが、この短編集を読むと、公務員の物語だったんだなぁ……というのがよくわかります。

名もなき下級役人と、彼らが出会った庶民たち、というのが主人公。

いわゆる歴史に名を残すような大物ではないけれど、「公僕はいかに生きるべきか」を追求し続けている人たちです。

 

現実から目を逸らしてはいけない。

でも、現実と向き合うとは、どういうことなのか。

自分は向き合ったつもりになっているだけではないのか?

 

短編集なので、4つのお話が入っていますが、丕緒以下何人もの役人たちが、自分なりの公僕の姿を求めているように見えます。

役人であるが故に、仙籍という不老不死の特権を与えられている人たち。

それゆえの孤独も、背負っている人たち。

 

読み応えのある短編集だと思います。

 

理解できぬ者を排除せずにいられるか?

二つ目の短編が「落照の獄」という、いわば法廷小説なのですが。

連続強盗殺人犯を、死刑にするのか、有期刑にするのか。

ずっと中止していた死刑を復活させることで、国家による虐殺を呼ぶのではないのか。

しかし、通りすがりの子どもが握りしめている、わずかな小遣い銭を奪うために、ついでのように殺してしまう残虐な殺人犯は?

 

殺人犯と話しをして、理解しようとしても。

子どもの命も簡単に殺すような男を、本当に理解することはできるのか?

あんな奴、人間じゃねえ、って、排除せずにいられるのか?

排除することで、自分の周りの日常を取り戻そうとしていないか?

それは実は、私利私欲と同質のものではなかろうか?

 

などなど、こちら側の社会問題にも通じるような難問に、向きあっている作品です。

辛いお話ですけど、考えさせられる部分も多々あり、興味深く読むことができました。

 

人は、寿命があって死んでいくから、社会も発展していく

十二国記は、ある意味、時間の止まった世界です。

王や麒麟は、善政を敷いている限り、不老不死ですし。

官僚たちに至っては、任命された時点で仙籍に入りますが、官僚を辞めない限り、不老不死。

たとえ王が非道な虐殺を行ったとしても、その責任が官僚に及ぶことはないので、きっちり評価に値する仕事をやっている限り、不老不死でいられたりします。

ま、悪逆な王に惨殺されることはありますけどね。

 

なので十二国記の世界って、過去600年くらいは、名のあるキャラの誰かが生きている世界なんですよね

つまり、なかなか世代交代をしない、と。

 

今回のような外伝的短編集を読んでいると、どこの国のいつの話か? に、頭を悩ませたりします。

これまでの作品で出てきた特徴的な勅令などが出てくると、「慶国予王の時代だな」とかわかるんですが。

文化・風習・文明化レベルが、どの時代も似たような感じで、500年前も現代もおんなじじゃんってなるのでね。

 

これ、結構怖いことじゃないですか?

たとえば戦国時代から今まで、社会が一切進歩しないとか、ありえなくないですか?

 

でも。

同じ人間が国の舵取りをしていたら、そもそも500年前のやり方であっても、不便を感じなかったりしますよね。

人間はそもそも、変化をストレスと感じる生き物ですから。

ずっと同じ人間が国家運営をしていたら、近代科学技術とかIT化とか、考えつきもしませんよね。

 

人が老いて死ぬということは、老いが近づけば近づくほど、怖くなります。

でも、のちの世に生まれる子たちのためには、必要なことでもあるんだなあ。

泣きそうになります。

覚悟を決めなければならない日が、誰の上にも訪れるんですね。

次の世代のために。

 

不要な仕事はこの世にはなく、不要な人も存在しない

 この短編集は公務員のお話ですので、さまざまな公務員が登場します。

国家が大変なとき……というのが、だいたいの物語の舞台ですので、そんなときにそんな仕事してていいの? みたいな公務員も登場します。

専門職の人たちなので、傍目には、何をやっているのかよくわからない、といような職務内容だったりするんですね。

 

儀式用の陶器の鳥をつくってるとか。

野原で虫の数を数えているとか。

 

でも、一見非生産的な活動に見えたとしても、その作業の裏の先の先には、国民の生活を支えるモノがあったり、国王への諫言行為があったり。

意味がない、と活動を辞めてしまったら、まわりまわって、民衆を苦境に追い込む現実が待っていたり。

 

どんな職業も、必要だからこの世に存在しているんですね。

目先の利益に左右されることなく。

生産性という一つの物差しで、排除されることなく。

職に貴賤なし。

すべての仕事は、道である。

 

今、こんな時代ですから、どの職業も揺れています。

みんな生き残りをかけて、頑張ってらっしゃることと思います。

頑張っても、それでも報われない、感染症という現実。

こういう時こそ、国家や地方行政が動くべきときなんですけどね。

 

まとめ

 ということで、『丕緒の鳥 (ひしょのとり) 十二国記 5 (新潮文庫)』は地味ながらも、人生を振り返らせてくれる作品でした。

王や麒麟の華やかさはないものの、だからこそ迫ってくる身近さ、とでも言うんでしょうか。

 

でもやっぱり、十二国記を読む順番としては、5番目というより、『黄昏の岸 暁の天 十二国記 8 (新潮文庫)』の後をおすすめします。

 

十二国記はもともとラノベですけど、『丕緒の鳥』は下級公務員たちのお話ですしね。

ここからでも手に取って下さる方がいらっしゃれば、嬉しいです。

 

ありがとうございました。m(_ _)m

十二国記『黄昏の岸 暁の天』を読みながら考えた、人間関係という思う通りにゆかぬもの。(ネタバレあり)

ほんのよこみちです。

コロナ禍の折、人間関係のめんどくささがしんどかったので、『黄昏の岸 暁の天 十二国記 8 (新潮文庫)』を読みました^^; 

黄昏の岸 暁の天 十二国記 8 (新潮文庫)

黄昏の岸 暁の天 十二国記 8 (新潮文庫)

 

 現実逃避かなあと思いつつも、他者に疲れたら、本を読みたくなります。

特に小説。

もちろん小説でも、読むことで余計に疲れる作品もありますけどね。

難解な作品とか💧

なので、セレクトは大事です。

(以下、ネタバレご注意ください)

 

 

あらすじ

十二国記『黄昏の岸 暁の天』は、『魔性の子』の裏面的ストーリーで、戴国の将軍・李斎が景国に飛び込んできたところから始まります。

戴では、王と麒麟が行方不明となり、国がどんどん荒れていく……。

という記述が、これまでのシリーズ中でも見られましたので、伝聞調でしかなかった物語世界が、いよいよ明るみになっていく、そういうどきどき感が味わえます。

 

李斎の回想によって語られる、戴国のその後。

泰麒が、なぜ蓬莱(こちら側の世界)に戻ることになったのか。

そして、高里要が日本で高校生をしている間に、陽子や延王・尚隆らがどうやって戴国を助けようとしていたのか。

ほぼオールキャストの、泰麒奪還作戦が繰り広げられます。

個性豊かな面々が、戴国を助けんと協力する様は、正直嬉しいです。

 

困っている人を普通に助ける人たち

結局、困っている他者を助けられるか、それなんですよね。

だから、人間関係で疲れていたときに、この本を読むと心が和みます。

 

今もコロナ禍で、世界中の人が困っています。

そんな中、自分自身の楽しみにしか興味のない人もいて……。

他者の困難を、娯楽コンテンツのように消費して楽しむことに、罪悪感を感じない人たちが、悲しいかな世の中にはいます。

そういう人たちから浴びせられる罵声は、しんどいです。

 

だから陽子のように、困っている他国の民衆のために何ができるか、考えて、メンターに協力を仰いで、できるだけのことをやりたいと動く人は、清々しい。

景国だって、お世辞にも豊かとは言い難いけれど、それでも助けを求めてきた人を追い返すなんてできない、その気持ちが、多くの仲間を動かすんですね。

 

正直、縋り付いてきた手を振り払うような人は、信用できません。

他者は自分のためにある、と、どこかで思っているふしがあるので。

信用を集めるのは、何とか手助けできないかと考える、陽子のようなタイプです。

 

政治家・官僚として、登用してはならない人物像

この作品の後半で、罷免すべき官僚について、陽子が教えを受ける場面があります。

 

  1. 差別的発言をする者は、必ず権威を振りかざすから、権威を与えてはならない。
  2. 差別的発言を恥じない者は、道の何たるかがわからないから、国政に参与する資格はない。
  3. 実状を知らない者に、他者を批判する資格はない。
  4. 実状を知ろうとするより、憶測で罪をつくり、その罪をもとに他者を裁くことに疑問をおぼえない者に、権威を与えてはならない。
  5. 自分の不明、不足を自覚せず、己の不遇を容易く他者のせいにして弾劾するものは、信用できない。
  6. 法に悖り、道に悖る手段で弾劾を完遂しようとするものは、危険人物である。

 

原文の意を変えない程度に、少し文言を変えましたが、上記がほぼ引用文です。

 

これを読むと、なんか頭痛くなりますね。

失言政治家って、そもそもダメじゃん、みたいな。

 

と同時に、どういう人間が信用に値するのか、どうすれば自分が他者から信用を得られるのかも、わかる気がします。

自戒と自省の判断材料としては、なかなかのものではないでしょうか。

 

少なくとも、

  1. 他者を差別する発言をしない、
  2. 憶測で他者を批判しない、
  3. 自分の失敗や不遇を他人のせいにしない、
  4. 暴力で他者を支配しようとしない、

そういう人が嫌われる確率は、まあ低いですよね。

上記のをやっちゃう人に比べれば。

 

また

報われれば道を守ることができるけれども、報われなければそれができないような者は信用に値しない。

 とも、今作で書かれています。

 

耳がイタイですね~(^^;)

会社が評価してくれないからやらない、なんて誘惑にかられることがありますもん。

 

現実の政治家の方々も、ちょっと自戒して欲しいなあと思いますね。

その言動は、国民からも世界の人からも、チェックされているわけですから。

「誤解を与えた」なんて謝罪は、ちょっともうなしにしましょうよ。

 

結局、人は能力ではなく人柄なのでは?

私も若い頃は、能力第一主義に親しみを感じる方でした。

ちょっとぐらいの性格の難は、能力でカバーできるよね、と。

まだコミュ力重視の社会ではなかったから、そう思っていたのかもしれません。

 

でも今は、人柄に勝るものは無いなあと思っています。

それは、それなりの発想力があるのに、人柄で損をしている事業主さんを、何人も見てきたから言えるんですが。

 

『黄昏の岸 暁の天』を読んで、あらためてこれを感じました。

信用できない人ではなく、信用したくなる人と、人間関係を築いていきたいと思わずにいられません。

でも、じゃあ、自分は人から見て信用するに足る人間なのか?

胸を張って「Yes!」と言える人って、実はそんなに多くなかったりして。

 

だからこそ、本を読む意味があるのかなと思います。

フィクションであろうがノンフィクションであろうが、他者を読むことで、自分を冷静に振り返ることもできるのでは? と思うので。

 

特に十二国記は、読者に自戒や自省を促してくれる部分のある作品なので、何度でも読み返す価値があると思います。

ありがとうございました。m(_ _)m

今、やっぱり心配な田舎の親。

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今週のお題「会いたい人」

 

ほんのよこみちです。

今、やっぱり心配なのが、田舎の親だったりします。

 

普段、頻繁に帰省しているわけではないですし、むしろ全然帰省してなかったりするのですが。

母親はもう亡くなっていて、70代の父親がひとりでいるだけなので。

 

子どもの頃から、今でいう虐待(体罰)家庭でしたから、父親と仲がいいという訳ではありませんでした。

モラハラもスタンダードで、私が意見を持つこともNGだったし、何か言えば「違う」と否定から入る人です。

なので、当然、大人になったら距離を取る道を選択しました。

接触したら、喧嘩になっていたので、子どもたちも実家に行くことを嫌がっていました。

 

なんですけどね。

いざ、こんな状況になってしまうと、やっぱり気になります。

ヘビースモーカーなので、肺は絶対弱ってるし、胃潰瘍から胃も切除しています。

先月電話したときも、ちょっと具合が悪そうでした。

 

なんだかなあ。

腐っても親子、なんですかね。

 

向こうが弱そうにしていると、やっぱり無下にはできません。

GWにも珍しく電話してきたので、ああSOSなんだなと思いました。

普段、全然電話なんてして来ない親ですから。

 

こういう状況が続くと、私もちょっと考えてしまいます。

東京を引き払って、田舎に移住した方がいいのかな、とか。

生活ができなくなるのはわかっているので、現実的ではないんですけどね。

アパートを借りるのだって、実父が保証人じゃなきゃダメというような地方でしたから。

50代の女がひとりで移住しても、とても生活基盤をつくることは難しい。

 

ドラえもんのどこでもドアがあればなあって、こういうときに思うんですよね。

 

他にも、伯母や病と闘っている友人など、今だからこそ会いたい人はいます。

田舎に帰れば、皆に会えるかも……なんて思ったりもします。

やっぱり、残りの時間、残りの回数を考えざるを得ないので。

あの世で再開できるなら、全然かまわないんですけどね。

 

Zoomを誘おうかとも思ったけど、年寄にそれはちょっと酷かなとも思うし。

それ以上に、会話が続かなかったときの締め方が微妙過ぎて怖い……。

難しいもんです。

 

それでも。

今、一緒に住んでいる子どもたちが「会いたい人」にならないように。

感染して、「会いたい人」にならないように。

手洗いとか、他者との距離を取るとか、できることをやって。

今を乗り越えていきたいと思います。

ありがとうございました。m(_ _)m

『憲法の良識』を読んで気づく、国家とは憲法であるということ

 ほんのよこみちです。

憲法記念日に、積読タワーから取り出して読んだんですけどね^^;

読んで、ノートに考えたことをメモして、ブログ記事にするのが時間かかるよって言っても、限度があるだろう(~_~;)

毎日更新してる方って、ホントすごいなあと思います。

 

 

初心者向けの憲法

この本は、素人向けの憲法本ですので、法学に詳しくない人でも読めると思います。

私も、憲法に特別詳しいわけではなく、過去に読んだ関連本って、池澤夏樹さんの『憲法なんて知らないよ (集英社文庫)』ぐらいなんで^^;

 

憲法なんて知らないよ (集英社文庫)

憲法なんて知らないよ (集英社文庫)

  • 作者:池澤 夏樹
  • 発売日: 2005/04/21
  • メディア: 文庫
 

 

ちょっと丁寧すぎるかな? と思うくらい、丁寧に書かれていると思います。

2018年の本なので、社会状況を論じる本としては、少し時間を感じるかもしれませんが。

 

現政権による改憲草案のどこが問題なのか。

そもそも憲法とはなにか。

どういう人類史の上に、現代社会は成り立っているか。

 

そういったことが、わかりやすく書かれています。

 

現代日本に生きている以上、いろいろなことから目を背けて生きていくことは、危険です。

立憲主義、民主主義とは、何なのか。

憲法学者からの見解は、これまで自分が考えていたこととは、違う視点を示してくれたりして、興味深いです。

次は、もうちょっと深い本を読んでみようかなと、思わせてくれます。

 

国家とは憲法である?

国家とは何か、と問われたとき、国土とか国民とかという答えを想像してしまうんですが、どうも根本は憲法だそうです。

日本の政治家だと、国体とか言いそうな気がしますけどね^^;

そういうことなので、戦争とは、憲法憲法の争いということですよ。

 

確かに、近代民主主義国家同士では、あまり戦争にならない気がします。

朝鮮戦争ベトナム戦争は、東西冷戦の代理戦争と言われているし。

中東戦争は、第二次世界大戦戦勝国の二枚舌外交による、領土問題。

湾岸戦争も、イラクによるクウェートへの侵攻。

アフガンとイラク戦争は、テロリズムとの戦いではありますが、ブッシュ劇場の側面もあります。

 

なんだろうなあ。

負けると、生命の危険があったり、住む場所を奪われたり、2級市民扱いになるかもしれない戦争……なんですよね。

太平洋戦争みたいに、負けたら自由を平和が手に入る戦争……ってのも、かなりいかれていると思いますが。

 

でも戦争中は、鬼畜米英とかって、負けたら虐殺される……みたいに言われてたんですよね、原爆は虐殺だと思いますが。

もっと早くに降伏していたら、助かる命がたくさんあったけれど、大日本帝国憲法は奪われる。

明治憲法がなくなって困るのは、政権中枢部だけでしたからね。

あの憲法にとっては、国民は使役の対象でしかありませんでしたから。

自由はあっても制限もある。

国というのは、憲法が国民をどうとらえているか、ですかね。

 

いやでも、近代民主主義国家であれば在民主権ですから。

民主主義国家同士なら、わりと安心して貿易もできますし。

これ以上のことはやらないだろうの領域が、理解の範囲内ですからね。

 

だから、権威主義国家になってしまうと、他国からの信用を失うんですよねえ。

隣国を見てもわかるように、何をするかわからない国、となってしまいますから。

それは、国益を大きく損なうことになる。

そういうことかなと。

この本を読んで考えました。

 

今こそIfを考えてみたい

そして、この本を読み終わって考えたことは、日本の未来です。

もしこのまま、自民党改憲草案どおりに憲法改定となったならば。

日本はどうなっていくのだろうか、と。

それは、いつか来た道に、とてもよく似通っているように思えるので。

 

何も変わらない、なんてことはないですから。

我々も、歴史の中に生きている構成員で、この世に娯楽を堪能しに来た旅行客ではないですからね。

 

変わらない、と思っていても、消費税一つとっても、導入前と今とでは大きく違います。

日本の領海から外には出なかった自衛隊も、湾岸戦争を機に、国外での活動が増えていきました。

静かに、でも着実に、社会は変わっていきます。

何せ、変えたいと思っている人たちもいるわけですからね。

 

明るい未来であればいいんですが、歴史は繰り返すとも言いますので、最後の総理大臣を見ることにならなきゃいいなと思います。

そこまで意識してしまうほど、今の状況はやばそうです。

 

なんて書くと、情報操作と思われる方もいらっしゃるかと思いますが。

やばい、と、普通の人が言えるように。

 

憲法って何なのか、考える機会を持っていただけましたら幸いです。

ありがとうございました。m(_ _)m