文月悠光さんの『屋根よりも深々と』を読んで、詩の空気を味わう。
ほんのよこみちです。
文月悠光さんの第2詩集『屋根よりも深々と』の世界を潜りました。
この本におさめられている作品は、文月さんが17歳から21歳までのものです。
なので、世界が若い。
最初の「狐女子高生」という詩は、不思議な感じで面白いです。
もちろん、詩の舞台は学校ばかりではありません。
最初に読んだときは、「骨の呼吸」という詩が気になって、ノートに全部書き写しました。
「私」を取り巻く「かげ」との関係が、永遠の理想を追いかけ続ける姿のように感じられて、なんか愛おしくなってしまいました。
でも、ブログを書くためにまたページをめくっていると、別の詩が気になる。
どれが、というのではなく、たまたま開いたページの詩を読んでいると、その詩から離れがたく感じる。
不思議な魅力ですね。
私は詩の論じ方なんてわかりません。
なんかこの詩が好き、というようなあいまいな(あほな?)ことしか言えません。
でも、文月さんのインタビュー記事を読んでいると、それでもいいんだと気づかされました。
なので、ご本人もいいって言って下さってるんですから、自由に詩の世界を楽しむことにさせていただきます!
よくわからないけどなんか好き、って、あほすぎて話にならない……的な感じで、詩の業界からは軽蔑されているんじゃないかと思ってました。
ああ、これって、文学とかSFとかにも、以前感じてたんですよね。
詩とはなにか、文学とはなにか、SFとかなにか。
そういう原理を思考することも確かに重要ですし、原理を思考するからこそ、新しい作品も生まれる。
それはわかるんですが、そうではない楽しみ方もあってもいい。
あるいは破壊的な楽しみ方が、新しい世界を切り開くかもしれない。
なんだかわくわくします。
それで、ちょっと羽目を外しすぎた人たちが出てきたら、まあ中高年がフォローすればいいんじゃないですか?
これは、詩や文学の世界に限らずです。
幕末の志士だって、中心になっているのは30歳前後の若者ですから。
若者が通った後に、もし屍がたおれているなら、年寄が抱き起せばいい。
私はそういうおばちゃんになりたいと思います。
詩って、思いついたときにページを開いて、瞬間的にその世界に潜れるのがいいですね。
すべてを理解できるとは限らないので、そのわからない部分を、自分の物語にひきつけて読むこともできますし。
小説だったら、主人公と自分との相違に腰が引けてしまう場合もありますが、詩は相違にグラデーションをかけることもできる。
多分、私が詩に惹かれる理由の一つが、そういうものなんだと思っています。
要するにヘタレなんですけど、まあいいじゃん。
完璧じゃないからこそ人間なわけで、そういう人間がつくったのが詩を含む芸術なのですから。