ほんのよこみち なブログ

元不登校の高校生と、ひきこもり→就労準備中の子を持つシングルマザーが、このくにで生きることを考えながら、本と好きなことを語ります。

『て、わた し』第1号を読んで、見て、詩と朗読を考えながら、断絶と老いについて想いをめぐらす。

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ほんのよこみちです。

『て、わた し』第1号を読みました。

先々月からお世話になっている、詩の教室の主宰者・山口勲さんが発行されている詩の本です。

実は、次回の教室の講師が三木悠莉さんで、ポイントが【朗読】なので、【朗読する詩人】を深めたくて、読み始めました。

てか、いろいろ買って福沢諭吉~、のうちの一冊なので、まあ、読みますわな。

 

で、読みまして。

掲載されている詩もエッセイも、やっぱりすごくて、メモしまくりました!

エッセイって、道に迷ったときに読んで気づきを得るものなんだと、石渡紀美さんの文章を読んで、あらためて思いました。というくらい模写しました💦

 

 

そして詩です。

順番に読んでいて、日本の詩と世界の詩の交差ということで、ぼんやりと感じたんですね。

日本の詩は文学、世界の詩は社会……。

 

これは、編集上の意図なのか……とも思うんですが、日本の詩と世界の詩とで、作品の色が分かれているような気がしました。

個人的には、「ブログで求められるようなわかりやすい文章ではない、文学的描写を感じたい!」と思って詩を学び始めたので、文学的な日本の詩に憧れます。

なんですが、だんだん世界の詩のパワーにも引きずり込まれていって、その社会性にばしばし共感していって……。

巻末のエミティサル・マフムードさんの作品「花嫁」に至っては、もう「花婿をしばき倒しに行くつもりなら、いつでも加勢しますぜ?」と、任侠気分💦

ほとんど人身売買的に嫁がされる少女、の現実を詠んだ詩なんですけどね。

風習の一言で片づけられるような問題ではありません。

守りたい。守らねば!

  

世界の詩が描く、不平等社会や虐待は、確かに衝撃的で胸を打ちます。

強い重力を感じます。

ただそれ以上に、自分が子どもの頃に感じた不平等や理不尽さが、世界の詩の表現と結びついて、いつの間にか身近な詩になっている気もするんですね。

昔は子どもに人権なんてなかったですし、女性の地位も低かったです。

各種ハラスメントやDV・虐待をみても、世の中は理不尽で、不平等が当たり前のように横行してますよね。

 

さらに、世界の詩を身近に感じれば感じるほど、日本の詩が、なんというか「若者の詩」というふうに見えてしまって。

中高年である私に身近な理不尽性と、若者が持っている瑞々しい自由さ。

昔は不平等で今よりもっと大変だったのに……というぼやきと、若者からの老害認定。

本当は、そんな記号みたいな対比関係じゃないのに、わかりやすい図式にして思考停止した方がラクだから、そうしたくなる自分がいる。

嫌~な断絶、ですよね。

 

『て、わた し』の巻末にはQRコードが記載されていて、YouTube にUPされている詩の朗読映像を見ることができます。

あわせて見ると、詩が【芸術】であるという事実を突き付けられて、打ちのめされました。

それは「お前なんかが、ちょっと頑張ったって、詩の世界に足を踏み入れようなんて考えること自体、おこがましいんだよっ!」と、頭を強打された感じです。

詩人の方は、アーティストでした。

詩の朗読は、芸能でした。

私には、とても入っていけない世界でした。

 

 

おばはんが、ちょっとそれらしいものを書きたいと思って書いてみても、

そんなのはそれらしいものでしかなくて、

ちょっと勉強したって芸術の道は遠く険しくて、

私が仕事とか家事・育児にかまけて文学から遠ざかっていた時間も、

詩人の方々は研鑽を怠ることなく、

成長期をふいにしてしまったツケはもはや取り返しがつかず、

老いはどうしようもなく、

というより「こんなの無理」と思うこと自体が老いでしかなくて、

未知なものを受け入れて挑戦する勇気こそが若さで、

現在、挑戦する気持ちを支えられるだけの体力に自信がない、なんて言い訳が出てくることこそが老いで、

そんな老いた駄目な自分を受け入れるしかないことが辛くて、

頑張っても無駄なことをなぜするの? と嗤っている自分がいて、

若い人とは生きる世界が違うのよ、なんて甘美な誘惑になびくのはたやすくて、

老いだとわかっていても、

自分は自分でいいんだ、と思わなければどうにもこうにもやってらんなくて、

中途半端なプライドが、なけなしの素直さを曇らせる。

 

 

芸術って、門戸を開いているようでハードルが高いなあとしみじみ感じつつ、平田オリザさんの「子どもの頃から芸術に触れていないと……」という言葉を思い出しました。

 

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 地方出身で、大人になるまでライブとか舞台とかを見に行ったことがない人が、20歳くらいから慌てて芸術を吸収しようとしてももう遅い、って呪いの呪文かと思いましたけど。

確かにそれは事実かもしれないけれど、だからといって打ちひしがれるだけなのも悔しいし、そもそも現実問題として、朗読というパフォーマンスを含んだ詩というものとの付き合い方をどうするか、喫緊の課題が存在したりします。

はてさて。

 

 

でもさ~、私は著名な詩人の誰かになることは出来ないし、芸術家でもないし、30年ぶりくらいに詩を学びたくなっただけのおばはんでしかないんだよね~。

そりゃ、うまくなりたいとは思うけど、ちょっと学んだくらいですごく上達するくらいだったら、とっくに書きまくって「現代詩手帖」とかに応募し続けてただろうし。

 

世の中にはすごい人はたくさんいる。

そういう人たちは、目標に向かって、常に研鑽し続けてきたから、すごい結果が残せてる。

私には秀でた何かはないけれど、その時々で最善の道を選んで歩いてきた。

人間は、必ずしも「何か」にならなければいけないわけじゃない。

人生に意味がなくてもいい。

自分が幸せと思い、誰かを笑顔にできる人生であれば、ただそれだけでいい。

 

50の手習いの壁は高く、迷うことも多々ありますが、自分なりにひょこひょこやっていくことで、新しい景色が見えればそれでいいんじゃないか。

そう思いながら、これからもやっていきたいと思います。