本屋B&Bさんで開催された『て、わた し第7号』のトークイベントに参加して考えた、今アジア人として生きること。
ほんのよこみちです。
2月22日の話だったりするのですが、下北沢の本屋B&Bさんで開催された『て、わた し第7号』のトークイベントに行ってきました。
(今さらネタですみません)
でもって、実はB&Bさんが今の店舗に移転されてから、行ったことがなかったので、盛大に道に迷いまして、遅刻いたしました。
地図は読める! と自信があったんですけどね~。
以後、グーグルマップさんのお世話になることにしました。(何かすごく敗北感……)
方向感覚も老化するんですかね?(まだ徘徊はしてませんよっ)
『て、わた し第7号』について
てわたしブックスさんが発行されている詩の雑誌『て、わた し』。
第7号はフラニ—・チョイさん特集で、今回登壇された、発行人の山口勲さん、堀田季何さん、ヤリタミサコさんのお三方や、会場に来られていた西山敦子さんが、翻訳をされています。
フラニ—・チョイさんは、韓国系アメリカ人で、女性で、性的マイノリティで……というように、さまざまな差別要因を持ちつつ、しかし差別に負けない詩作をされている方です。
私も初めて読ませていただいたときに、ちょこっと書かせていただきました。
アメリカ合衆国内でのアジア人に対する差別
で、遅刻してしまった私が着席したとき、堀田季何さんの「アジア系住民に対する差別」が始まるときでした。
堀田季何さんは、フラニ—・チョイさんと同じブラウン大学をご卒業された方で、短歌や俳句を詠まれる方で、英語俳句も書かれるし、翻訳もされるし……という、多才な方です。
『て、わた し第7号』を最初に拝読したとき、堀田季何さんってすごく知的な方だなあって思いました。
知的レベルが高すぎて、雲の上の人というか、私の理解力ではこの方の文学にはついていけまい……という絶対の自信がある! というくらい。
なので、伝説の文豪みたいな方だったら、私の脳みそはついていけるのか?……なんて心配したりしていました(^_^;)
あほですねえ。
知的な方であることに間違いはないんですが、とても物腰の柔らかなお優しそうな方でした。
でも芯は強くていらして、度重なる苦難を乗り越えて来られた方で、本当に素敵な方です。
その堀田季何さんの「アジア人差別について」ですが。
日本人は有色人種ですから、まあ白人から差別される側だろうな~とは思っていたんですけどね。
まさか東アジア人って、アメリカの黒人、ユダヤ人、イスラム教徒、ヒスパニック系からも差別される、ヒエラルキーの最下層だったとは!
ちょっと、ショックではないですか?
アメリカの同盟国って表明してますけど、そこに頼りきっててマジ大丈夫? って。
実際は、アジア人学生の5割以上がいじめられてるんだってよ?
ご近所の国同士で、叩き合ってる場合じゃないんじゃないの?
思えば、黒人、ユダヤ人、イスラム教徒、ヒスパニックって、それぞれのコミュニティが存在しますよね。
ヒスパニックって、スペイン語圏っていうラテンアメリカの一体感的なものがあるらしい。
黒人は、差別との闘いの歴史の積み重ねが、ある。
なんか、東アジア人だけ、バラバラじゃないですかね?
それでもまだ、中国人は移民の歴史が長いから、あちこちにチャイナタウンがあるし、団結力もあるんです。
弱小勢力なのは、韓国人と日本人では?
短絡的かもしれませんが、東アジア人もグループ化できるようにした方が、いいんじゃないでしょうか。
もちろん、巨大な中国の中華思想は怖いです。
中華思想って、周辺国を「中華」に取り込んでいくという征服思想ですから。
また、日本があまり前に出てくると、いい印象を持たない国もあるでしょう。
大東亜共栄圏なんていう、失敗の歴史がありますから。
でも、そういう一連の難しさと折り合いをつけながら、Win Winになる道を模索していくしかないのかな、と。
最下層同士でいがみ合ってるって、ちょっと哀れというか、みっともないというか。
中国地方第2の県を争っている、岡山県と山口県の戦い……じゃないんですから。
(低レベルな争いながら、中国地方第1の県は広島県だと、みんな認めている中での、醜い争い。でも第1の広島県ですら、自身が中途半端なことに気づいている)
あ、地域ネタですみません。
でも、そういう「はあ?」な状況だったりするのかなと、思ったもので。
女性に対する差別・セクハラ
日本でもセクハラってありますが、アメリカでもひどいもんですね。
そういうセクハラを逆手にとって、フラニ—・チョイさんは詩に取り入れてらっしゃいます。
強い方だなあって、ホント思います。
そして、それらの詩の翻訳に取り組んだ方々も。
自分語りですみませんが、私は性的表現に対し、恐怖しかありません。
性と言えば密室がつきまといますが、密室ゆえに、仮に事故死しても、不幸な事故で片付けられてしまうんだろうなあ……という状況を、何度も経験したので。
怖いです。
息が苦しくなります。
そして、今現在も、その人はこの国のどこかで生きている。
私には、フラニ—・チョイさんの勇気ある作品が読めません。
いえ、読みましたけど、どこか逃げ腰で読んでいます。
私の個人的な問題であることに、違いはありませんが。
どこまで戦わなきゃいけないんだろうって思いますが、それは死ぬまでなんで。
怒りの表現とは?
「 怒り」に焦点をあてた「女性差別問題」を取り上げられたのが、ヤリタミサコさんです。
『て、わた し第7号』の「女性は怒りを表現する方法をトレーニングされていない」のくだりは、ホント、拍手喝采したいくらいでした。
昭和世代の女性は、悲しくて泣けば「泣き虫」と莫迦にされ、怒れば「ヒステリー」と罵られ、「良妻賢母」もしくは「肝っ玉母ちゃん」になることを、求められていたように思います。
少々のことは一喜一憂しないで、感情を表に出さず、いつもにこにこ笑って、家族のために粉骨砕身尽くす。
夫が何かやらかしても、怒ったり責めたりしないで、さりげなくフォローする。
感情を表に出さず、意見を言わず、耐え忍んで、粛々と男の言うことに従う。
実は、古いタイプの人の中には、今でもそういうもんだと思っている人がいます。
女は感情で動く生き物だから、その怒りはわがままの発露でしかないけれど、男の怒りには論理的な理由があるから正しい……的な。
自分の怒りに対して、女が反論したら「口答えするな」というような古い男、絶滅していないですよね。
また、女性陣の中にもそれを肯定する人はいて、「適当にあしらわないとダメ」という、奴隷根性を陰で発露させていたりします。
セクハラ対応と同じですね。
でも、ちょっと考えてみたら、男性陣だって「泣くな」「しゃべるな」と言われてきた時期、長かったと思うんですよ。
ひょっとしたら現在進行形で。
男は無口な方がいい、的なノリが。
そうやって男も女も言葉を封じて、じゃあ誰が喋ったり感情を吐き出したりしているかというと、その場の最上位の人間かな、と。
つまり、昔の頑固おやじとか、体罰する教師とか、ブラック企業の経営者とか、政治家とか。
支配者が、支配しやすいようにする論理。
被支配者である社会的弱者の、感情や、怒りや、反論を封じで、何も考えず、意見を言わず、おとなしく目立たぬように、羊の群れの中で息をひそめているのが幸福だよと、そう教え込むこと。
そうして抑圧しているからこそ、密室で、己が最上位者であると気づいた途端、それまで押さえつけられていた自らの万能願望を解放したくて、虐待や、DVや、いじめや、モラハラや、弾圧をやらかしてしまうのかな、と。
他者が、自分の怒り一つで、言動を我慢せざるを得なくなる……という状況は、それまで自身が抑圧されていればいるほど、ものすごく快感になるんですよ。
子どもや、部下や、後輩や、配偶者や、弟妹や、そのほかの自分より明らかに弱者と思われる相手に、怒りの暴力をふるっても正当性が主張できる万能感。
この誘惑はあまりに甘美で、打ち勝つには、どこまでも冷静な自己判断力が必要になる。
冷静であればあるほど、自己抑制につながりますから、まあ楽ではないですし、下手したら弱者たちの増長を誘発させ、最上位者の立場を奪われかねませんし。
なので、怒りをうまく表現するって難しいんでしょうね。
結構、私は身近な理不尽を理不尽と主張する方なので、「女のくせに」という反発を、未だ受けます。
「非正規雇用者のくせに」というのも受けるけど。
「普通の主婦の発想じゃない」とかもよく言われましたが、どんだけ「普通の主婦」を舐めてるんだろうって思いますよ。
「お前は黙って、素直に、言われた仕事をやっていればいいんだよ」って、大声で言う人ほど、仕事で結果を残せていないのに出世してたりしてね。
当日の会場では、男性文学者の方々の怒りの表現について……も、トークの時間がありました。
ですが、文学という場を持っている方々は、怒りを他者ではなく作品に向けるんですよね。
それは、支配者の道ではないかもしれないけれど、他者を虐げない、温和な道かもしれないなと、あらためて思いました。
生きるための詩
というように、文学的表現の場を持っている方たちは、人生で苦難に見舞われても、怒りや悲しみを文学表現に昇華することができますからね。
SNSで、誰かを匿名で叩いて憂さを晴らすより、絶対的に健全な生き方だと思います。
莫迦にする暇があったら、書いてみりゃいいじゃんって思うの、難しいから!
詩集や歌集を読んでみりゃいいと思うの、救われるから!
詩人歌人の好みはもちろんあると思いますけど、いらいらが静まったり、冷静になれたり、癒されたり、心の処方箋(……って本、昔あったな)だと思うんですよ。
今回、堀田季何さんの歌集を買わせていただきました。
サインもいただいたりして。
すごく丁寧なサインですよね?
お人柄があふれ出ています。
実は私、この歌集に既に救われていたりします。
息子と口論になって気持ちがささくれだって眠れない夜。#堀田季何 さんの歌集『惑亂』を読み始めたら、なんとも言えず込み上げてくるものがあって、心が落ち着いていくのを感じている。
— ほんのよこみち📝 (@honno_yokomichi) 2020年2月24日
もう感謝しかないです。
息子も許します。見捨てられません。 pic.twitter.com/lugiMp5SUT
まだ全部読めてないんですが、というかもったいなさすぎて一気の読むことなんてできない、ゆっくり味わいたい、読み終わりたくない!
毎日、最初から読み始めて「今日はここまで」ってやってる……あほかいな?
でも、詩集の読み方も、だいたいそんなもんなんですよね~。
中原中也詩集とか、未だ全部読み終わってないし。(こちらは途中で理解力が討ち死にしただけなんですけど)
堀田季何さんの『惑亂 (新鋭短歌シリーズ)』については、また別途、語る機会を設けたいと思いますが、イタ語りにしかならんかな?
おわりに
今回、お話を聴けて本当に良かった点は
- アジア人として生きる方向性を考えることができた
- 怒りに紐づけされた社会構造を考えることができた
- 生きることと文学との関係性を考えることができた
- 堀田季何さんの短歌に救われた
こんな感じでしょうか。
考えて、次は自分でどう行動するかですよね?
(それが結構難しいんだよねえ……^^;)
書き始めたら止まらなくなってしまった記事を、ここまで読んでくださって、ありがとうございました。m(_ _)m
今日が、明日が、より良き日でありますように。