適応指導教室の修了式と、所属中学校の卒業式(不登校生の部)に、保護者として参加して感じたこと。
ほんのよこみちです。
3/18、3/19、卒業式(修了式)に保護者として参加してきました。
何で2日続けて? って、所属中学の卒業式に参加できるよう、適応指導教室の修了式をずらしているんですね。
なので、子どもが両方に出席するなら、親も両日、有休を取らなあかんのですよ(^_^;)
- 適応指導教室の修了式は、アットホームな小さな学校の卒業式でした。
- 所属中学校の卒業式(不登校生の部)は、とてもこじんまりとした式でした。
- スピーチの上手下手には人間性が出るぞ!
- 不登校になったら負け組、なんて子どもが思わなくていい社会にしたい。
適応指導教室の修了式は、アットホームな小さな学校の卒業式でした。
うちの子の通っていた教室は、小学4年生から中学3年まで、総勢70人超が在籍していました。(2019年度)
修了式は小学6年生と中学3年生合わせての合同式なのですが、参加修了生は15人以上で、小さな山村小中学校の卒業式という感じ。
式場も、教室二つ分くらいのホールを使って、音楽も流して、来賓も来て、ザ・卒業式という方向性を感じました。
(それが苦手に感じる子もいるようなのですが、さあどうなりますかね、来年は)
ただ、式自体はアットホームな感じで、良かったと思います。
修了生全員が、前に立ってスピーチするんですが、いわゆる「学校スピーチ」的なのをきれいにまとめてやる子もいれば、独自性を貫く子もいます。
でも、それらすべてが、その子らしくていい。
そういう空気感が、適応指導教室をアットホームな場にしているんだなと思いました。
式には参加しませんでしたが、卒業生が式場の外に来てくれたりして。
修了式が終わった後、みんな名残惜しくて、久しぶりに会った高校生たちと話すのも楽しくて、普段の日みたいにUNOしたりしてましたね~。
マスクして。
今回はコロナ騒ぎで、在校生がほとんど来ていなかったのですが。
でも、僅かに来てくれた在校生との距離も、ホント近くて。
うちの子にとっては、母校ですね。
所属中学校の卒業式(不登校生の部)は、とてもこじんまりとした式でした。
そして翌日、中学校の卒業式(不登校生の部)に参加してきました。
午前中、普通の卒業式をやって、午後が不登校生の部。
学校に行くと、担任の先生が迎えてくれて、親は小教室(式場)で待ち、子どもは別室へ。
式場にはお花が飾られていたり、校旗が立てかけてあったりしたんですが、全体的に、こじんまりしているなあという感じでした。
保護者の数も、うちを入れて五組で。
なんですけど、入場してきた生徒は、うちの子とあともう一人のみ。
やっぱり来れなくなったお子さんがいた、ということだったんですね。
卒業証書も、保護者の方が代理で受け取ってらっしゃいました。
こちらの卒業式は、先生との距離が近い式だなと感じました。
例えば校長先生が、出席している二人の生徒の目を見て、話をして下さる。
「困難にぶつかっても絶対あきらめるな」って、多分、午前中の子たちよりも必要な言葉だと思ってらしてるのかな、と。
生徒本人のスピーチもありましたけど、保護者も立って挨拶をする時間が設けられている。
担任の先生が、それぞれの生徒に向けて、話をする。
3年間担任をして下さった先生には、とにかくお礼を言いたかったので、他の保護者の方が学校に対する感謝を述べられている中、私はとことん「〇〇先生、ありがとうございました!」でしめちゃってました(^▽^;)
若い先生だったのに、こんなめんどくさい保護者にあたって、本当にごめんなさいって感じで(>_<)
小教室にわりと人口密度高めな式だったので、先生方はあんまりこういうのに慣れてないのかなと思いましたが。
でも、上の子の時にはなかったですからね、こういう式は。
時代が変わったというか。
一つの枠におさまらない子はダメ……みたいな不文律は、もう古いよってなってほしいんですけどね。
スピーチの上手下手には人間性が出るぞ!
今回、2日連続で式に出席し、いろんな方のスピーチを聞く機会に恵まれました。
式典のスピーチって、大抵長くてつまらなくて苦痛……という印象ありませんか?
でも、実はそこにも上手下手ってあったんです。
上手いスピーチをされる方のお話は、聞いてて苦痛じゃないし、思わずメモを取りたくなるし。(そして手帳を出してメモった)
あまりうまくはないけど、それでも一生懸命話している方のお話は、そこまで苦痛じゃない。
反対に、駄目だこりゃって思ったのは、書いてきたスピーチ原稿を読み上げる人。
あなたの作文発表会になってますよ、ってツッコみたくなりましたね。
あと、感謝を強要するスピーチも、生徒の心情に立ち入りすぎだよなあ……と思うし。
感謝しろ、なんて言ってる相手に、人間は感謝しませんよね。
感謝したくなるような人柄の相手には、自然と頭が下がるものです。
強要する側が、まずそこを行動で示さないと。
感謝されるに足りうる人間とはどういうものか、そこから考えて実践していかないと、子どもに偉そうなことは言えません。
なので、式典やなんかで、子どもが退屈そうにしていたら、あなたのスピーチが下手すぎるってことやで? って、気づこうよ、みんな!(特に来賓と先生)
我慢するのも勉強のうちって言ってた教師いたけど、先生が低きに流れてどうする?
先生だって見られてます。
教師ではなくても「先生」と呼ばれる方も、実は採点されているんですよ。
スピーチ能力って、ホントよくわかりますから。
という意識で、次回からは取り組んでほしいですね。
私もがんばるので。
不登校になったら負け組、なんて子どもが思わなくていい社会にしたい。
今回、二つの卒業式に参加して、お友だちのママとお話させていただくこともあったりして。
それでやっぱり再認識したのは、男の子ってプライドが邪魔して自分自身を追い詰めてるよね、ということ。
うちの上の子(男子)もそうだったので、すごくわかるんですが。
いじめにあうと、学校に行きたくなくなる、それは普通の心理です。
適応指導教室に通えば楽しいけれど、世間的には「学校に行けていない子」という扱いを受ける。
学校に行けていない分、勉強は大幅に遅れる。適応指導教室は自習が基本ですから。
それで、高校に行けるのだろうか。
てか、こんな自分に、未来なんてあるの?
「学校に行くという当たり前のことができていない自分」を、とにかく責めているんですよね、子どもって。
だから、ご近所さんにその辺のことを触れられると、たまらなく辛くなる。
でも、いじめは怖かった。
朝起きて学校に行くのも、辛い。
結局、「学校に行くのは当たり前」ってのは、「みんな我慢してつまんない授業につき合っているんだから、抜け駆けは許さないよ」っていう、奴隷根性の掃きだめですからね。
実際、今回のコロナ騒ぎみたいなのが起きると、いかに独学できるかが勝敗の分かれ目……みたいになってしまうし。日本では。
横並びで安心する方が、本当は怖いんですけどね。
ただ、そうやって思考停止してると、大人も子どももラクだからなあ。
確かに不登校生には発達障害の子も多いし、そういう障害を持った子と接するのは、こちらの技量が問われることでもあるんですけど。
この子にどこまで合わせていかなあかんのやろ? って思うこともありますけど。
できる人間が合わせていくしかないんですよね。
そうして、お互いに成長していくのがWin Win。
ちっぽけな損得勘定は、置いといて。
私も、子どもたちが不登校になってくれたおかげで、視野が広くなり、成長できた部分がとても大きいと思ってます。
自分の弱さと向き合う機会も得られたし。
学校に行かなくても、勉強はしなきゃいけなくて、ゼロから独学している姿を見ると、大変そうなんですよね。
特に英語。
勉強の仕方がわからなくて、英文を読むのにも、助詞とかまで全部調べながら、頭を抱えている我が子を見ると。
文法を学んで、単語や構文をおぼえて……という手順を踏まないから、明治の人みたいな勉強の仕方になってる。
過去150年の日本教育の積み重ねの上にある、今の学校の授業ってすごいなと、純粋に尊敬してしまいます。
だから、授業を受けられなかったというのは、損失には違いありません。
理科の実験だってやってきていないから、化学や電流がさっぱりわからないし。
でも、その事実を知った今がスタートラインで、今からじゃあどうするかって考えていけばいいし、知らなかった昨日よりは、前進しているわけですからね。
躓かない人生なんてないし、最終的には死という躓きがあるわけですから。
ま、幸せだなって思える瞬間を、いかに多くつくり出せるか、人生の勝敗ってそこだと思うんですけどね。
ライフスタイルや経済力が全世界に見える化してしまうことで、萎縮してしまう気持ちもわかりますけどね。
でも、どう生きるかは、自分で決めて行動するしかないんで。
個人が負け組・勝ち組とかって、狭い社会で足を引っ張り合うことよりも、日本が勝ち社会か負け社会か、考えた方がよくないですかね?
社会全体の幸福度が上がれば、それだけ相対的に幸福な人も増えるのでは?
本当はそういう社会に大人がしていかなければいけないのですけど、ふがいないので、みんなで考えていってほしいな、というところで。
閉塞感ばかりのこの春に、未来のための変化がありますように。
ありがとうございました。m(_ _)m