ほんのよこみち なブログ

元不登校の高校生と、ひきこもり→就労準備中の子を持つシングルマザーが、このくにで生きることを考えながら、本と好きなことを語ります。

十二国記『風の海 迷宮の岸』を読んで考える、「王と麒麟」というシステムから学ぶことは何か。(ネタバレあり)

ほんのよこみちです。

十二国記を積みあげて、読んでます!

(家事やら子育てやらの合間の読書なので、読みながら、メモしながら、ブログ更新……が、ホントゆるゆると、になってしまうのですが^^;)

 

風の海 迷宮の岸 十二国記 2 (新潮文庫)

風の海 迷宮の岸 十二国記 2 (新潮文庫)

 

 『風の海 迷宮の岸 十二国記 2 (新潮文庫)』は、『魔性の子』の冒頭の、高里要が神隠しにあっていたとされる時期のお話ですね。

 

ということで、以下魔性の子』のネタバレも含めて、この作品のネタバレもいろいろ書きますので、そのおつもりでお願いします。

 

 

我々は他者を【役割を果たすもの】として見てはいないか?

十二国記のお話もエピソード2まで来ると、「王と麒麟」の役割がだいたいわかってきます。

あちらの世界では、麒麟が王を選び、王が道を誤って悪政を敷けば、麒麟が病に斃れ、その後、王も死ぬ。

王がいなければ国が荒廃し、妖魔が現れ、民は過酷な環境で生きざるを得ないので、一日も早く、麒麟に王を選んで欲しがる。

ただ、麒麟は天意に従って王を選ぶしかなく、その天意がなぜあるのかもわからず。

時に、王を選ぶという重責につぶされそうになったりもする。

 

読者として我々は、麒麟=王を選ぶ機関、ととらえそうになります。

当然のこととして、麒麟に生まれた以上、その責務を果たすのは普通ではないか、と。

本作の主人公・泰麒も、こちら側(蓬莱)に生まれ育った高里要くんであっても、麒麟だから、まあ選ぶよね、と。

彼の家庭環境は、確かに怖いおばあちゃんといじめられてるお母さんがいて、お父さんは子育てに無関心で、弟はずる賢くて、とても居心地のいい家庭とは思えない。

だから、泰麒として生きた方が、絶対よくない? と。

 

なんですけどね。

本作を読み進めるうちに、泰麒の本心に我々は触れることになります。

「うちに帰りたい」「お母さんに会いたい」と。

麒麟という役割を押し付けられたのが、まだ10歳の小学生であることを、突き付けられます。

そう感じるほどに、機関としての泰麒として、10歳の子を認識していたわけですね。

 

そんなのお前だけだよ? だったら良いのですが。

結構、これって怖いことだなと思いました。

 

仮に、重大な任務を持っている人(子ども)であったとしても、その役割以前に、その人はひとりの尊重すべき人格を持っていて、いろんな感情や思考を持っていて、それらは役割を果たす果たさないに関係なく、あるべきものとして、尊重されるべきではなかろうか、と。

 

我々が日常的に役割で他者を見るとすれば、学校とか仕事とかですよね。

教師だから、生徒だから、上司だから、部下だから。

社会の中で、役割を持って活動しているわけだから、四の五の言わず、役割を果たすのが当たり前だろう、と。

個人の感情や思惑など、関係なく。

 

それは、とても冷酷な感覚ではないですかね。

10歳の子に、泣き言言わずに国家のために尽くせ、というくらいに。

戦時中ですか? というくらいに。

 

権力者としての覚悟が、この国の人間にあるのか?

国家機関として、それでも麒麟は王を選びます。

選ばれた王は、麒麟とともに天勅を受けます。

天勅とは、この(十二国記の)世の成り立ちから、国家や制度の成り立ち、王としての責務や道について、天帝より言葉を受けることです。

人智を超えた、神のような存在を、王と麒麟が感じるシーンですね。

 

この小説を読んでいて、ちょっといいなあと思ってしまったのは、こういうところなんですよ。

権力の座につくときに、権力者にその自覚を促す強い力があれば、この国の政治は、少しマシになるになるんじゃなかろうか、と。

己の持つ力に対する覚悟というのは、この国の人間の大半が、無自覚なままじゃないかと思うので。

 

もちろん、人間の力の及ばないところにある権力……なんてものにすがるのは、結構情けないことだと思います。

つまりは、賢帝に支配されたい奴隷根性ですからね。

一定の枠の中での自由に甘んじ、支配者から下される安寧に満足するのか。

衆愚政治よりも、そちらの方がいいと言えるのか。

 

この小説が書かれたころって、湾岸戦争のあったころかなと思うんですが。

日本政府が「金は出しても血は流さない」と、多国籍軍から冷笑されてたころですかね。

そういう屈辱を経て、今の自衛隊海外派遣とか、集団的自衛権の行使容認とか、あるわけで。

要するに外圧。

 

日本人って、御上意識が強いなあとは思うんですけど。

主体的に判断ができなくて、言い訳ばっかりですよね。

最善を尽くすとはどういうことか、といった覚悟が足りない。

「仕方ない」で、困難から逃げまくろうとしてる。

 

だから十二国記みたいに、王を麒麟(天帝)が選んで、王が失道したら天帝が駄目だしをしてくれる世界の方がいい、と思いたくなる気持ちを、抑えなきゃいけないんだと思います。

思考停止だから。

自由と人権の放棄だから。

奴隷への階段を転がり落ちるだけだから。

 

民主主義は不完全かもしれません。

だからこそ、ひとりひとりが、自分の持つ力に自覚を持って、王のように自分の行動の道を問いながら生きるというのは、どうでしょうか。

 

人間関係は、上下より水平な関係の方がいい。

本作には、結果として2組の王と麒麟が登場します。

戴の驍宗と高里、雁の尚隆と六太。

泰王と泰麒が上下関係なのに比べ、延王と延麒は水平な関係ですよね。

 

これは、互いの人間性によるところが大きいんですが。

どこまでも萎縮している泰麒と、人としての度量は大きいもののどこか怖い驍宗。

驍宗のなにが怖いって、名前からして、皇帝の諱を連想させるし。

それも武断の王を。(実際、驍宗は禁軍の将軍ですけど)

だから、なんとなくはらはらしてしてしまう。

 

そこに比べると、延王と延麒の関係は、安心して読めます。

口は悪いけど、信頼関係がちゃんとできていて、言いたい放題でもノリツッコミでも、すべてOK。

関係性としては、理想的です。

500年の年月が培ってきたもの……というより、これはもう二人の人柄ではなかろうかと。

まあ、その辺の話は『東の海神(わだつみ) 西の滄海 十二国記 3 (新潮文庫)』に譲るとして。

 

私の個人的な感覚ですけど、敬語を使い合う関係より、ボケツッコミできる関係の方が、魅力的だと思います。

何かあっても、笑いで包める……というか、そこんとこは互いの度量だと思うんですよね。

他者を対等な存在として、受け入れられる度量。

そういう部分は、見習いたいと思います。

 

驍宗の強さを見習いたい。

 こうして記事にしていると、個人的な驍宗の評価がすごく低いようにも読めてしまいますが、決してそうではなくて。

泰麒の苦悩を景麒から聞かされたときの、冷静さを保ちつづけられる強さには、ホント敬意しか表せないですね。

そして、弱さを表面に出すことに慣れていない彼が、発した一言。

それでも自分は王だろうか、と。

 

驍宗は、蓬山にいた頃から、結構良心的で知的なセリフをいろいろ言ってますが。

彼の最大の危機(この本の中での)ともいえる、上記のシーンの対応ぶりが、一番好きですね。

新作『白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)』を、まだ読んでないので、すごく怖いんですが。

痛めつけられるよね、ってわかっているから、怖い。

だから、ゆるゆると読んでいるのかもしれない。

弱いなあ。

 

ということで。

十二国記は、登場人物とともに、読者も成長を促される作品です。

促されても、すぐ忘れちゃうのが人間の弱さですが、でも振り返ってみれば、その読書経験は決して無駄ではない。

そう思えるからこそ、ファンの多い、長く愛され続けている作品なんだと思います。

 

本作で、泰麒が一番気づいたことは、自分の選択は誤りではない、ということ。

この不安定で危機的な時代に、それは一つの旗になるのかもしれないと思いました。

 

誰だって、自分が正解の道を歩いているかどうかなんて、わからない。

天意が示してくれるわけなんてない。

でも、選んじゃった以上、それが誤りでないことを、自分で証明していかなきゃならないんですよね。

結果的に。

最終的に。

たとえ、表面的に誤りかもしれない状況に陥ったとしても、そこで得られたものを糧にして、次の道がある、というくらいに。

 

覚悟という単語こそ、十二国記にふさわしい単語かもしれません。

我々以上に、王も麒麟も、失敗の許されない道を歩んでいるわけですからね。

 

そういう意気込みを、この作品を読むと思い知らされます。

へこたれないで、生きてゆきましょう。

 

ありがとうございました。m(_ _)m