勉強ができる子とはどういうものか、何を背負わなければならないのか、考えてみた。
ほんのよこみちです。
小説を読んで記事にまとめる行為がしんどくなったので、手軽に読めそうな本を、積読タワーから手に取りました。
まずお断りしておきますが、私は決して勉強できる子ではありませんでしたし、うちの子たちもそうです。
うちの子が勉強で困っているからこそ、逆の立場の子はどうなんだろうと、まあ下世話な好奇心からですね。
勉強できる子の現状
この本を読むと、いかにステレオタイプの「勉強できる子」が嫌味な人物として描かれているか、よくわかります。
不良っぽい子が実はいい子で、秀才タイプはいつも悪役。
そんな刷り込みゆえにか、「勉強だけできてもダメ」と、勉強できる子の数少ない長所を、これでもかこれでもかと叩きまくる社会・日本。
子ども社会の中での反発もすごくて、未就学児の段階から、勉強できる子たちは周囲に気をつかっているんですね~。
他の子から、嫌われないように。
「あの子なんかむかつく」って言われないように。
小学校高学年くらいからは、「上から目線」って言われないように。
涙ぐましい努力です。
というふうに読みながらも、なんかひっかかる部分をおぼえていました。
勉強できる子っていうのは、努力の末にできるようになったわけじゃなく、生まれつき勉強する才能があった子たちですよね。
たまたま才能を持って生まれて、小さな時から好奇心を発揮して、学習意欲を満たしつつ、周りに気をつかいながらも中学高校は進学校に進んで、東大などの名門大学に進学して。
それって、すごく恵まれたことじゃないですか?
地方の教育事情(ほんのよこみち家の場合)
私事で恐縮なのですが、私の実親は、地方の親にありがちな「あまり教育を重視しない親」でした。
勉強を頑張って、東京の大学などを目指すより、地元の国立大を目指すべきだ、というような。
将来、東京や世界で働きたいという希望を持つより、地元企業に就職して、親と同居しながら家庭を持ってほしい、というような。
うちの親はさらに一歩踏み込んで、「勉強は学校ですればいい、塾に行く必要はない」という方針でした。
通信教材にも、お金を出してもらえませんでした。
うちの親からしてみたら、学校が子どもに教えてくれることは、四則計算と、親孝行すべしという道徳だけでよかったんですよ。
理論とか人権とか自由なんてのは、うちの子には不要だと言って憚らない人たちでしたから。
なので、勉強してもいいっていう環境は、すごく恵まれたものじゃないかと思うんです。
うちみたいに極端な例じゃなくても、「大学は県内」に限定される友人は多かったですし。
中には「県内の国公立のみ」なんて鬼のような限定のされ方をする友人もいました。
頭のいい子だったので、県内の国立大に合格しましたが、それでも志望学部を「絶対合格圏内」の学部に変更しましたからね。
何のための研究?
違和感の正体
勉強できる子って、勉強だけできてもダメって貶められるとか、スポーツできる子は無条件に称賛されるのにとか、言い分はあろうかと思います。
もちろん、勉強ができる子も、スポーツが得意な子も、絵や歌がうまい子も、お洒落な子、かわいい子も、みんなそれぞれ「いいね!」でいいじゃん、という意見には賛同します。
ただやっぱり、勉強できて、東大に入れた人は、有利だと思うんですよ。
勉強できる才能と、勉強をさせてもらえる環境に恵まれて。
日本が狭けりゃ、世界に出ればいい、と思えるような人生に恵まれて。
勉強できない子は、うちの子なんかもそうですけど、自己肯定感が低くて、自分には未来なんてないって思っているくらいですから。
こんな勉強できない自分に、幸せになる資格はない、と。
どんなにあれこれ言われても、成績という数字は嘘をつきません。
学歴社会である以上、勉強できる子が手に入れられる世界を、できない子は手に入れられないんです。
それも、才能という、努力だけではどうしても補いきれない部分によるもので。
さらに、恵まれた環境があって。
ごめんなさい。やっぱりずるいって思っちゃいますよね。
勉強できる人に目指してほしいもの
勉強できる人というのは、できない人とは違う世界が見えているんだと思います。
知能的に。
だから、本当に申し訳ないんですけど、もっと高みを目指してほしいと思います。
もちろん、勉強できるけど発達障害という方もいらして、そういう方は本当に大変だと思います。
なまじ勉強できる分、そのギャップに周りが引いてしまうというか。
多分、ステレオタイプな「勉強できるけど嫌なヤツ」って、発達障害の人の障害を周囲が理解できないゆえに起こった、不幸なアクシデントだと思うんですね。
自分ではそんなつもり全然ないのに、周囲とうまくいかないとか。
なんですけどね。
頭のいい人が見えている世界って、わからない人には見えないんですよ。
知能の高低の壁は、いかんともしがたくて。
これはもう、わかる人に動いていただくしかないんです。
高みを目指してください。
素晴らしい人になって、素晴らしいお仕事をしてください。
人として、隣人を愛してください。
私利私欲にまみれた、ちっぽけな人間なんかにならないでください。
お願いします。
感謝
今、自分が持っているモノって、自分の努力だけで掴んだものじゃないと、私は思います。
運も多分に左右してる。
生まれた場所、親、時代。
たまたま学校で出会った人たち。
才能。
努力だけではどうにもならないものを、運が見方してくれて、今の自分を形づくってくれているんだと思います。
だから、感謝しかないんですよ。
運をはこんできてくれる、この世のすべてに。
不遇な環境であっても、その結果の自分ですから。
そりゃもっと幸運な環境であった方が絶対いいと思いますけど、そこにいるのは今の自分じゃないんで。
もっと不運だったら、今、生きていないかもしれないんで。
何かを感じる「自分」という存在は、唯一無二の宝物なんで。
なので、私のような特に勉強ができたわけでもない人間も、もっと高みを目指そうと思います。
素晴らしい仕事は、年齢的にもうできないかもしれないけれど、人の良さを肯定できる人間でありたい。
私利私欲を全廃することは難しいけど、なるべく人のためにお金を使いたい。
物理的な隣人ばかりでなく、ネットの隣人も愛す。
(でも、攻撃的な人には10倍返ししちゃうけど)
私もそんなに動ける側ではありませんが、仕方ないんですよね。
例えば、発達障害の子を見ていると。
動ける側が、フォローに入るしかないんですよ。
弱者を攻撃したくなる人、いるみたいですけど、人間っていつまでも元気じゃいられませんからね。
いつ病に斃れるかもしれないし。
みじめで嫌になるでしょうけど。
そのときのためにも、人間力を鍛えておくしかないんですよね。
動くことで、鍛えさせていただく、とでも言いましょうか。
勉強できようができまいが、みんな大変だと思います。
特に、今の世界においては。
なので、想像力も鍛えたいですね。
今日も明日も幸運がありますように。
ありがとうございました。m(_ _)m