アニメ『GOZILLA 星を喰う者』を観て考えた、希望と絶望。(ネタバレあります)
ほんのよこみちです。
アニメ『GODZILLA 星を喰う者』を観てきました。
公式サイトはこちら⤵
それで、ですよ。
やっぱり考えてしまうのが、この作品で描かれている希望と絶望について。
虚淵玄さんはそういうのがお得意、と、子どもたちにさんざん聞かされていたんですが、やっぱり単純なハッピーエンドとはいかないあたり、今の社会は生きづらいんだなあと感じてしまいました。
物語の舞台は、ゴジラによって壊滅状態の地球。
主人公ハルオ率いる、生き残りの若手部隊(?)が、対ゴジラ作戦を決行しつつも、あと一歩のところで希望が踏みにじられる……というのが、前作までのストーリーでした。
今作は、前作で攻撃武器がほぼすべて使えなくなってしまったので、これまでのようなバトルができない状態で、ストーリーが進みます。
ゴジラは休眠状態なものの、そこに存在している。
いつか目覚めるかもしれないけれど、こちらにはもはや対抗手段がない。
その恐怖から、メンバーはメトフィエスの宗教に傾倒していきます。
これが気持ち悪くて、怖い。
このシリーズ全般が鬱々としていて重いんですが、みんなが宗教に救いを求めていく様は、怖いです。
そこには教えらしいものもなく、神の啓示があるだけで、その啓示もいかようにも解釈のできるものなので。
で、まあ、案の定……という展開になるわけですね。
ネタバレ全開ですみません。
そういうわけで、ギドラとゴジラのバトルもありますが、それはこれまでのゴジラ映画にある、ある種のほのぼのさも感じられるような、そういうものではありませんでした。
え? ほのぼのさって『ゴジラの息子』の観過ぎじゃね? って⁇
でも、昭和ゴジラって、なんか愛嬌ありませんかね?
話を戻します。
ゴジラ映画でVS怪獣が出てくると、結構のんきに観れたりしましたが、アニメゴジラはそういう甘えを許してくれませんでしたね。
マジ怖い。
誰も逃さない、的な、圧倒的な破壊力が怖くてたまりませんでした。
怪獣映画=恐怖映画という初心に帰るのなら、なるほど成功例と言えますね。
それで、希望と絶望ですよ。
今回ハルオは、進んだ科学技術文明がゴジラを生んだ、という仮説に思い至ります。
なので、物語のラストで仲間たちが再文明化に走らないように、マシンもろともゴジラに特攻をかけてしまいます。
せっかくフツワの民のみんなと、つつましくであっても生きていけると思っていたのに……。
ハルオはなぜ、仲間と仮説を共有し、解決策をみんなで考えようとしなかったのか。
今作の肝は、実はここにあるように思います。
そのハルオの心理こそが、日本人の生きづらさを表しているような気がしてなりません。
と同時に、これは現実世界に生きる者への警告ですよね。
もちろん、SFというジャンルそのものが、かつては進み過ぎた科学技術への警鐘でした。
それ以上に、情報共有しないで個人の判断で隠蔽してしまう、そのこと自体が、実は日本人の悪い癖のように思います。
例えば、近年続く災害に対して、土砂崩れの発生しやすい地域を示す地名を、宅地分譲のイメージのためにきれいな地名に改変してしまう。
例えば、1945年の破滅について、何故日本は滅びの道を突き進んだのか、原因の検証を満足にしないまま、なんとなく年月を重ねてしまっている。
対外的な謝罪云々は枝葉の問題で、もっと根本的なものの追究をしないと危ないんですけどね、国として。
というような見方を私はしましたが、この作品を読み切れていない部分もあると思いますので、まあご了承下さい(;^_^A
いろんなレビューでもそうですが、レビュアー自身の立場や考え方に、どうしても引き寄せられてしまうんですよね。
以前、精神科医の先生の講座を聞きに行ったとき「『アナ雪』はひきこもりの姉を妹が外に連れ出す話です」と言われていて、なるほどそう見るか! と思ってしまいました。
なので、もしあなたが私の文章を読んで「好きな作品が汚された」と思うのでしたら、「こいつにはそういうふうにしか読めないのだ」と思っていただけると助かります。
私に限らず、すべての発言や文章はそういう状況のもとになされているので、真正面に受け止めず、発言者のフィルターをはずしながら読んでいただけると、いいかもしれませんね。
ということで、アニメのゴジラシリーズはこれにて終了ですね。
次世代シリーズとか、絶対できそうなんですけどね~。
ま、次世代の子どもたちがゴジラを凍結させる話……にはならないでしょうけどね(^^;)