『て、わた し第2号』を読んで、宮尾節子さんを好きになる、と表明することについて考える。
ほんのよこみちです。
『て、わた し第2号』を読みました!
ともに生きるための言葉、ということで。
冒頭の宮尾節子さんの詩が、すごく素敵です!
誰かが声をあげることで、黙っている人が
つらくならないように。
黙っている人がいることで、声をあげる人が
つらくならないように。(本文より)
なんて素敵な言葉でしょう!
そう、こういう言葉を私は大切にしたかったんです!
パフォーマンスの優れた方、アウトプット能力の高い方が、努力を評価されるのはいい。
でも、そうではない方の存在が、価値の低いものにされるって、どう?
また、誰かが言わなければならないことを、たった一人、言った人が、差別・更迭される社会ってさ……。
自己責任っていう言葉で、他人を蹴落とそうと躍起になっているけれど、それで社会は成り立つのでしょうか。
宮尾節子さんと対になって紹介されている、ネオミ・シーハブ・ナイさんも、温和な社会派詩人です。
こういう方々の作品が好きって思うのは、ひょっとして年代かもしれませんね。
発行人の山口勲さんは、お二人のことを「正しいことを書く詩人」と仰られていますが、あえてそういう言葉が出てくるということに、ちょっとびっくりしてしまうのでした。
つまり、逆に「正しくないことを書く詩人」もいるのか? ということで。
う~ん、「常識に挑戦する」くらいじゃ「正しくないこと」には入らないし。
そもそも「正しくないこと」って「殺・盗・犯」だけだと思ってるし。
小説なら、殺す・盗む・犯すって、もはや手垢のついた題材だし。
あ、国家礼讃?(……また微妙なことを……)
で、ですよ。
ここで、宮尾節子さん好き! と表明してしまうことは、この方の作品の意思にちょっと反するのではないかな、と思うわけで。
お前が宮尾さんを好きなのはわかった、でも、他の方々作品の立場は?
ネオミ・シーハブ・ナイさん、世界に向けられた優しいまなざしが好きです。
静勲さん、紙の本の上での表現に前向きな感じが、好きです。
オーシャン・ヴォングさん、広大な自分探しの旅をされているような作風に、エールを送ります。
堀田李何さん、国家なる部族の夢は緑色 の句が、個人的には一番好きです。
結局、どこが好きか、ということしか表明できない。
これは私が好きと思う点であって、他の人から見たら違う良さがあるだろうし、つまりは絶対的な評価なんかでは毛頭ない。
それを、表明してしまうことの暴力性について、考えてしまうわけです。
例えばセレクト系のショップやイベントってたくさんありますよね。
それ自体は、目利きの方のおかげで面白い作品に出会えたりするので、大好きなのですが。
ただ、選ばれなかった作品とか、「こういうところで活動している作家は選ばない」というような選者の方のお話を目にしたりすると、セレクトという行為自体の力というものを感じてしまいます。
力を持つものは、その力自体の強さを自覚しなければいけない。これ、一時習っていた武道の師匠の教えなので。
という反面、Twitterで「作家はいつでも筆を折るか否か考えているので、好きな作家がいればぜひ気持ちを表明してあげて下さい!」というようなツイートを読むと、もっと大好き表明しなくちゃ、とも思う。
言葉の力って、本当に恐ろしいです。
だからこそ、もっと言葉に敏感になって、言葉を丁寧に扱い、芸術性を見出せるような文章力を身につけなくては、と思うんですね。
だから、文芸作品をたくさん読んで、他者の気持ちも想像できるようになって、柔軟な視点、想定外の思考をも吸収できるようにならないと、いつまでたっても小さな自分の殻から這い出ることができない。
50目前のくせに、小さな自分の殻ってどうよ? とも思うけど、足りないものがあることから目を背けても、みっともないだけですしね。
……って、こういうところが「圧が強い」と子どもたちから言われるところなんですけど💦
ということで、勢いで『明日戦争がはじまる』を買いました。Amazonで。
読みたい積読本がたくさんあって、もはや本棚に入りきらないくらい本があるのに、どうすんだよ? ですけどね。
ちくしょう、本棚の本をセレクトするかあ。
こっそりと、ね。