ガルシア=マルケスの『族長の秋』は、読むのが難しくて理解できたかどうか怪しい、という状況で考えたこと。
ほんのよこみちです。
ガブリエル・ガルシア=マルケスの『族長の秋』を、2週間かけてやっと読み終わりました~!
とにかく読みづらい
読む前に、いろんな方から「ガルシア=マルケスは独特の文体で……」というようなことをお聞きしていたんですがね。
『予告された殺人の記録 (新潮文庫)』を読んでいたので、「大丈夫じゃね?」みたいに気軽に考えていたんですよね~。
甘かったです。
読み始めて5分で、気づきましたもん。
これは、えらいもんに手を出してしまったかも……。
何が読みづらいって。
ストーリーがあちこちに飛んだり、やたらと情景描写が派手だったり……っていうのも、もちろんなんですけどね。
そういう文章の一つ一つが、とにかく長い。
そして、段落がない。
ページびっしりに活字の詰まっている状況が、章ごとに丸々続いていくので、休憩場所がない。
昨今では、なかなかお目にかかりにくい紙面でしたよ、はい。
とはいえ、ノーベル文学賞作家の作品ですから、この文体に慣れてしまえば、なかなか興味深く読むことができます。
まあ、この膨大な文章をおぼえていられる記憶力が、もう私にはないので、ちょっと残念……。
この作品は、若くて体力のあるうちに読むことをお勧めします。
年とってから読むと、いろんな意味で辛いかも……です。
小説自体が、多様性を語りかけてくれている
この小説は、南米の架空の国の大統領の、晩年の姿を描いています。
107歳とも233歳ともいわれる、老いた権力者。
なんですけど、一見まわりくどく過剰とも思えるような情景描写が続きますし、しかもそれが色彩豊かで、大判の油絵を見ているような気分にさせてくれます。
大判なんだけど、焦点はその絵の小さい部分に当たっていって、ぺらんと絵の具を剥いでいったら、その中にいろんなエピソードが埋もれていて……。
それらの個々のエピソードを拾い上げていくうちに、別の個所の絵の具も剥いじゃって……というような感じでしょうかね。
時系列に話が進んでいるかどうかも怪しいですし(特に前半は)。
ときどき出てくる「わたし」「われわれ」が誰なのかもわからない。
解説を読むと、「われわれ」は大統領を見ている民衆らしいのですが、そんな不特定多数の一人称なんて、馴染みなさすぎて……。
この小説、現代日本の無名の書き手が書いたものだったら、はたして商業出版なされただろうか……と考えてしまいます。
もっとわかりやすく、改行も増やして、一人称の主人公は統一して、ストーリーも時系列に沿って書いた方がいい……なんてことを、言われるんじゃないですかね。
ネット上に上げていたら、誰にも読まれないような……。
でも、誰もが読みやすさばかりを追求していたら、結局、そういう読みやすい文学ばかりになってしまって、とんがったことってできなくなっちゃうんですよねえ。
読みにくいものを排除していたら、こういう外国文学の良さを吸収することもできなくなるのではないでしょうか?
同調圧力で、安定の型を良しとしていたら、新しい芸術は生まれなくなりますし。
日本文化って、外国の異文化を吸収することで、独自性を花開かせてきたようなもんですし。
『族長の秋』は、小説として存在するだけで、そういったことを考えさせてくれます。
独裁者の愚かさは、古今東西の共通事項
架空の国の大統領の晩年を描いた小説ですが、とにかくその晩年が長いので、いろんな愚行をやらかしてくれます。
愚行? 蛮行? 大量虐殺ですね。
もう、ありえないくらい、ばかなことをやらかします。
読みながら、何度どつきたくなったことか!
マザコンで、寂しがり屋で、愛に飢えた大統領?
そりゃ、これだけ好き勝手やって、殺しまくった報いでしょうがっ!
でも、ちょっと冷静に考えたら、こういう独裁者って世界中どこにでもいるんですよね。
我が国にも、信長とか秀吉とか、改革もしたけど虐殺もした権力者、結構います。
絶対的権力を持って、しかも長期政権化したら、最初はどんな賢者であっても、驕りが出て、たがが外れて、愚者と化してしまうのが人の世の常。
且つ、独裁者の周りには、独裁者の怒りに触れることを恐れて、忖度しまくる集団が湧いて出ますからね~。
忖度が、思いもよらぬ愚を生むことは、近年よく話題に上っていますが。
それもまた、人の世の常。
これが大河ドラマなんかだと、独裁者だって良かれと思ってやったことで、基本は善人で、どこかで間違っちゃっただけの愛すべきばか……みたいになっちゃいますけど。
でも、失われた命は、どうにもならなくて。
気分や思い込みで惨殺されたりなんかは、絶対御免被りたくて。
だから、ダメだと思うんですよ。
ラクしようとしたら。
政治なんて面倒くさいことを、誰かに任せてしまおうとしたら。
身の回りのことだけ考えていたい、なんてやっていたら。
馬でひかれて八つ裂きにされるとか、生きながら何十頭もの犬に食われるとか、絶対嫌ですよね。
つきまとう死の恐怖
先ほども書きましたけど、この小説では、大統領の思い込みや側近たちの忖度やらで、ものすごい数の人が殺されていきます。
そういう殺されてしまう側の恐怖もありますけど、大統領自身の死への恐怖も、小説内では常につきまとっています。
てか、大統領が死にたくなくて、自分を誰かが殺そうとしているんじゃないかと疑心暗鬼になって、ばかすかやってるんですよね。
死にたくないし、死んだ後が怖い。
孤独な独裁者だからこそ、死ぬのも、自分の死後に自分の身体がどう扱われるかもわからないから、怖い。
自分の死というのは、一度意識し始めると、どうにも手が付けられないくらい自分の中で膨らんでいくので、その辺は私も、大統領の恐怖に同調しながら読んでいました。
避けられないものだからこそ、怖い。
それがわかるから、今、生きていることを大事にしたいと思う。
その思いに、頑張ってすがりつこうとしている自分。
200歳とか、生きられるわけないですからね。
なので、やっぱりこの小説は、若い人向きかなあと思うんですよね。
自分の死を意識し始めると、死臭の漂う小説を読むのは、結構精神力が要ります。
同じばかすか人の死ぬ小説でも、吉川英治『三国志』の方が、ぜんっぜん気楽に読めますね。(この比較もどうかと思うけど……)
奴らは、死ぬことについて全然考えていないというか、わりとあっけらかんと死んでいくので。
まあ、戦時中の作品ですからねえ。
死の怖さを強調しない方が、よっぽど危ないんですがね。
エピソードの一つとして登場する、詩の朗読を味わう文化意識
この長編小説の中の、ほんの一つのエピソードとしてなんですが、大統領が家族を連れて、詩の夕べ(朗読会と思われる)を聴きに行く話があります。
しかも、正装して。
さらに、言葉の美しさに感動して帰っている。
前述したような、あほさ加減で人を殺しまくっている人間が。
文化の違いなんでしょうけど、なんかちょっと、その文化意識の高さに、びっくりしてしまいました。
日本だと、和歌を詠み合う会に参加して、歌のすばらしさに感動する、とかそういう感じですかね。
ちょっとなんか、非日常感が漂ってくるんですけど……。
つまり、一般的な日本人の文化レベルって、その程度のもん……という残念なお知らせかなと。
言葉はわかりやすければよい……という効率を優先させるあまり、その美しさを味わう感覚を失わせ、文化という、本来弱小国が武器とすべきものを、無下に寂れさせてしまっている……。
いや、芝居とか音楽とか、正装して味わう文化なら、他にもたくさんあるでしょって?
ただそこには、演技者や演奏者、歌手の技量が大きくかかわってきますよね。
もちろん、詩の朗読にも、朗読者の技量というものが関わってきますが。
なんだかなあ、違うんですよ。
詩の朗読の方が、頭も神経も使うし、わかりにくい。
つまり、こんなあほうな大統領より、文化的に劣っている……なんて認めるのは悔しいんですよ、私は。
野蛮人より野蛮人って、情けないですしね。
文学は、一部の人間が趣味として嗜めばいいもの、なんて認めないぞう!
効率しかなかったら、効率で劣ったときに、存在価値が失われて悲しいじゃんか~。
まとめ
ということで、この本を読んでうだうだ考えついた結論は、この読みにくい小説を読んで、非日常的な異文化に触れて、自分の中のモノと化学反応をおこしましょう! ということでした。
もう、それですね。
文章はうっとおしいし、大統領には腹が立つし、登場人物たちもどんどん駄目になっていくし(いろんな意味で)、だけど。
この読書体験は、日本に居ながら異文化交流です。
独裁者が落ちぶれていくさまを、こんなふうに描くんだって、そこだけでも面白い。
日本だとありえない書き方なので、そういうありえなさを体験するのもまた一興。
880円で垣間見るラテンアメリカ。
手軽に安全にできる異文化体験。
とはいえ、ちょっと疲れたので、次は圧倒的に読みやすい本を読みたいなあ……なんて思ったりもするんですがね。
人生で読める本は限られているので、とにかく気になる本は読んでいきたいと思います。
ありがとうございました。m(_ _)m