『て、わた し』第7号を読んで感じた、女として生きることの重さと強さ。
ほんのよこみちです。
『て、わた し』第7号を読ませていただきました。
『て、わた し』第7号 発売中です。
— てわたしブックス (@tewatashibooks) 2019年12月26日
韓国系のアメリカの女性詩人、フラニー・チョイさんの詩を西山敦子さんはじめ、4人で翻訳しました。
中村仁美さんによるアイルランドのスポークンワーズシーン
の紹介も楽しいです!
直販・お取扱店にてお買い上げいただけます。https://t.co/Lypyzkiv5f pic.twitter.com/E0Dbxqa8MY
今号も、なかなかに重い内容で、考えてしまうことばかりでした。
- フラニ—・チョイさんの詩という現実
- ヤリタミサコさんによって気づかされた「怒りの表現の難しさ」
- 西山敦子さんの訳者エッセイで知る「人間と機械と動物の合いの子」視点
- 堀田李何さんの才能は、私の理解力の範疇を超えている
- 長谷川結香さんの描く普通の女の子、に対する呪縛は、やっぱり暴力
- 古﨑未央さんの詩は、悲しさがあふれてくる
- 宮尾節子さんの「温かい命」の力強さと儚さがしみる
- 中村仁美さんが紹介される、アイルランドの詩人という生き方
- 山口勲さんには学ぶことが多いです、本当に
- おわりに
フラニ—・チョイさんの詩という現実
韓国系アメリカ人の女性詩人、というだけで、さぞいろんな差別や偏見をその身に受けてこられているんだろうな、ということが想像できますよね。
今号の特集がフラニ—・チョイさんということで、9編の作品が掲載されています。
どの詩もメッセージ性が強くて、重いです。
読んでいると、自分の負の記憶や負の感情が、ずるずると引きずり出されてくるようで、怖くなります。
それだけではない、「チェ・ジョンミン」という詩は韓国名と自分というテーマの詩ですが、日韓併合の歴史を持つ日本人として、朝鮮名を奪った側の人間として、考えなきゃいけないことがあるな、と。
他人事でも、見たこともない死者のやらかしたことでもなく、歴史を学んで良識を持とうとしている現代人の我が事として。
女性蔑視や人種差別に対する視線も、同じ次元に存在しているわけですから。
なので、どの作品を読んでも、重くて苦しいです。
そう感じるのは、私が女性で、DV経験者だからかもしれません。
作品として、詩として、自分と切り離して読めないのは、未熟の極みだなあと思いますが。
苦しいよ、詩の中の嫌悪感や苦痛や怒りが伝わってくるので。
これらの作品を、言葉の技法云々で語っても、なんかひとりの女性の苦痛を面白がっているだけみたいになってしまうので、彼女が詩という表現方法をつかわずに済む道こそを議論しないと、手段のための手段の堂々巡りやなあ……という袋小路に陥るわけですね。
現実を「仕方のないもの」と絶対視はしたくないので、どうすれば皆がよりよく生きられるかを考えると、重くて潰れそうになります。
そういう力のある詩だからこそ、広く読まれるべき作品なんでしょうね。
ヤリタミサコさんによって気づかされた「怒りの表現の難しさ」
ヤリタミサコさんは、フラニ—・チョイさんの詩の訳者のひとりですが、その訳者エッセイの中に、気づかされた文章がありました。
私は自分も含めて、女性は怒りを表現する方法をトレーニングされていないと主張してきた。怒るとヒステリーと言われ、泣くと泣き虫と言われ、知的女性は喜怒哀楽を抑えるものだと教育されてきた。(中略)これらは何のための教育だろうか?もちろん、男性中心社会が女性に求めているのは、泣きわめいたり怒鳴ったり自己主張せずに受け身でにっこり微笑むこと。(後略)
そう、これですよ、これ!
何があっても慌てず騒がず、肝っ玉母さんのようにすべてを受け入れて微笑んで、男がやり散らしたことの後片付けを、文句も言わずに粛々とやるのが良い女、みたいな価値観の押し付けですわな。
私はこれを背負わされて、白旗を揚げることも叶わず、離婚した後も、子どもたちの前では背負い続けているので、考え込んでしまいました。
強い母ちゃん、やっててええのん?
これ、子どもたちに間違った女性像を植え付けていない?
まあ、怒鳴ったり自己主張したりは、人様の倍以上やっているから、いっか~。
私はこの程度ですけど、ホントに良妻賢母やってる女性陣も多いと思いますので、誤解は拡大再生産されてゆくのね、女性自身によって。
その誤解を解くための手段の一つとして、詩があるのなら、ポエムだのなんだのって蔑まれようと、心情の発露としての詩にも意味があるのでは? と思うのでした。
というとこいら辺で、実は、自分の下手くそな詩に似た何かを、懸命にフォローしようとしている人がここにいたりします。
下手すぎて、もう無理って思ってたのにさ……未練が出てきちゃうじゃないか。
前向きになれる言葉に出会えるって、本当に幸せですね。
西山敦子さんの訳者エッセイで知る「人間と機械と動物の合いの子」視点
「人間と機械と動物の合いの子」という言葉自体は、女性解放運動家・山川菊栄さんの1919年の評論からの引用だそうです。
西山さんが訳された「チューニング・テスト」というフラニ—・チョイさんの詩が、人間を機械的に判断する、そういうことの表現なのですが。
人類が、長い歴史の中で、動物と機械を使役しながら文明を発展させてきて、でも国家そのものは他者を使役する仕組みから始まっているから、結局支配者から見れば、人も動物も機械もおんなじで。
でも、バブル世代の私は、気づかなかったんですね。
今世紀生まれのうちの第2子は、人間と機械と動物の認識の垣根がゆるく、推しキャラが機械生命体だったり動物人間だったりします。
それを不思議に思っていた私には、機械も動物も人間とは大きな隔たりのあるモノ、という固定概念しかありませんでした。
フラニ—・チョイさんも1989年の生まれで、この激動の時代に成長期を過ごされたんだなあと思うと、生きている世界の違いを感じます。
そして気づかぬまま、我々親世代も「人間と機械と動物の合いの子」の立場に立たされていて、知らぬが故に右往左往しているんだな、という悲哀も感じました。
この悲哀に気づき、飛び出そうとする力が、文学なんですね!
堀田李何さんの才能は、私の理解力の範疇を超えている
『て、わた し』第7号で、堀田李何さんは、フラニ—・チョイさんの詩の翻訳と英語俳句の創作をされています。
特に英語俳句については、私の理解力の範疇を超えています……( ̄▽ ̄;)
訳者エッセイでも、翻訳に対する向上心を書かれていて、なんかもう私とは次元の違う方だわ……というのがよくわかります。
え~と、英語俳句は、SFファンが好きそうな感じで、私も日本語版の言葉の並びとか好きなんですが、そもそも俳句がよくわかっていないので、わからん……💧
英語俳句って、五七五とか季語とか、どういう扱いなんですかね?
すごく新しい扉を開いてもらったという感じです。
世の中には、まだまだ知らないことがたくさんあって、気が抜けません。
生きてるって面白いです。
長谷川結香さんの描く普通の女の子、に対する呪縛は、やっぱり暴力
長谷川結香さんは、普通の女の子が普通に生きているだけなのに、それを肯定できない呪縛を、詩に描かれています。
長谷川さんご自身が、小学校の先生から受けた「ひとりっ子だから駄目なんだ」という呪縛には、もう怒りしかありませんね。
「は? それ、モラハラだってわかって言ってる? 教師という地位と権力を使って人格否定やるって、虐待なんですけど?」と、どつきたくなりました。
自分が愛情に飢えてるからって、生徒に対してひがみ根性全開でモラハラやるって、良識ある大人のすることじゃありませんな。
愛情を受けて育った人がいるからこそ、世の中がうまく回っていくんだって、教師のくせに知らんのか。
こういうひがみ根性の持ち主が、他者の足を不用意に引きずりおろして、不幸の拡大再生産化社会になる……というのが日本社会のようですけど、こんなクソは蹴落としていいんだよってマジに思います。
そもそもひとりっ子か否かって、本人に選択の余地はない問題だし、ひとりっ子だからって多産の子より愛情受けてるとは限らないわけだし、愛情受けて何が悪い?
ああもう、怒り全開ですみません。
でも、こういう不用意な一言が、人間を追い詰めていくんだって思うと、やりきれません。
長谷川さんの詩が、普通の女の子の心情を代弁してくれるものであれば、私はそういう子たちを擁護できるようになりたいと思います。
古﨑未央さんの詩は、悲しさがあふれてくる
私はともちゃん9さいさんを存じ上げませんでしたが、亡くなられたということはTwitterのタイムラインに流れてきたので、そのことだけは知っていました。
古﨑さんの詩には、その悲しみが詰まっていて、あふれていて、読んでいて胸が締め付けられるようです。
そしてエッセイも、読まずにいられない、読んでいくうちに、その悲しみのおこぼれを共有させてもらって、読む前とは違う深い場所に連れて行ってもらう、そんな文章です。
人間は、死からは逃れられないので、存じ上げない方の死であっても、感じ合うものがあるのかもしれません。
そして、いつも感じる側であった自分が、いつか感じることができなくなる終わりの瞬間が来る、存在が消えてしまう時が来る。
生きている限り、ご自身の舞台に立っていてほしいと思うのです。
宮尾節子さんの「温かい命」の力強さと儚さがしみる
宮尾さんの詩は、言葉の一つ一つが力強くて、どきっとする言葉であっても、安心感というか大丈夫な感じがあるんですよね。
グラスの中の赤い酒という表現も、性であり静であり生であり……。
なので「残り少なくなった赤い命」が儚くて、でも「くるくると」「うれしげにダンスを」がやっぱり力強くて、この方の詩には救いがあるのだと再認識させられます。
宮尾節子さんは、私にとっても憧れの人なので、こういう詩人にはなれなくても、こういう人を目指して生きていきたいです。
中村仁美さんが紹介される、アイルランドの詩人という生き方
私はびびりなので、未だ詩の朗読会に行くということをやっていません。
でも世界では、そういう生き方が普通なんだなっていうことを、このアイルランド詩人の紹介エッセイでも、突き付けられます。
楽しいんだろうなっていうのも、すごく伝わってきます。
ネットにそれらしきものを書き垂れてんじゃなくて、言葉として、全身を使ってパフォーマンスするアートな生き方。
この違いは、多分、人生の質の違いというか、目標の設置方の違うというか、そういうのでしょうかね。
パフォーマンスとして詩の朗読をできる人って、ホントすごいと思います。
顔を出して、大勢の前に立ったら、もう逃げられない……と思うのは、私がDV経験者だからかもしれませんが。
でも、『て、わた し』に登場する詩人さんたちって、皆さん朗読を普通にやってらっしゃるんだもんなあ。
例えば社会の矛盾とか弱者へのまなざしとか、そういうのを詩にしたいという気持ちはあったとしても、そのためにある意味人生の退路を断つわけですから、すごいなと思わずにはいられません。
詩人というのは、職業にはなかなかできず、生き方になっています。
その生き方を選んだ人たちが、こうも格好良く見えてしまうのは、その潔さゆえでしょうね。
山口勲さんには学ぶことが多いです、本当に
『て、わた し』発行人の山口さんは、詩人で翻訳者で、『て、わた し』の方向性を決められている方で、その姿勢から学ぶことは、本当に多いです。
死んだ後に残りうる「業績」で評価されたいと、かつて私は思っていました。しかしフェミニズムの歴史を学んだとき私は「業績」という言葉が真理でないことを知りました。(中略)
すると私は何を人の評価の基準にすべきでしょうか。私は生きているときに人間が平等であることを言いきる人間性だと考えています。
上記は、フラニ—・チョイさんの詩を訳された訳者エッセイとして書かれた中の文章ですが。
死後の「業績」って、人なら絶対気になると思うんですよ。
私も自分の死を考えたときに、何が残せるかをまず考えましたもん。
生きている間にどうであっても、死んで何も残らなかったら、自分の生きた証が何も残らなかったら、自分の人生って何? と。
そういうしょぼい感傷ではなく、生きているときに人間が平等であることを言いきる人間性と言いきってしまう人間性とは。
やっぱり詩の朗読をやる人は、潔いですね。
利己ではなく利他な生き方で、しかも見返りを求めることをしない。
見習うべきではありませんか。
山口さんが主催する講座にも伺っていますが、そこで紹介していただく詩人の方もとても素敵な方ばかりで、生きる上で勉強になることが多いです。
『て、わた し』はごつい本ではありませんが、毎号、奥の深い、考えさせられることの多い、詩の雑誌だと思います。
この本に出会えたご縁も、そもそもの発端は1年前、詩の講座に申し込むという私の無謀な行動が元なんですが、結果オーライで無謀すら肯定できる、このご縁パワーのすごさ。
ありがたいことです。
おわりに
『て、わた し』は薄い本なので、ぱらぱらっと読み流してしまうと、それなりの感じ方しかできないかもしれません。
でも、心にひっかかった言葉のひとつひとつに向き合って、考えていくことで、深い読書体験のできる本だと思います。
詩を理解することは、読みなれていない者には、なかなかハードルが高い部分もあります。
私も今年、何度も折れて、何度も逃げて、結局ぐるっと回って戻ってきました。
5月と11月という発行時期も、もがいたり、あがいたり、挫折したり、やっぱり挑戦したり……を、ひととおりやる間として、私にはちょうど良い宿題期間でした。
さあ、じゃあ、次の5月までに、どれだけ成長できるかですね。
今、読みたい文学がたくさんあって、ひとつひとつ挑戦していこうと思っています。
1年前の今ごろは、小説を読むことも重かったので、ちょっと変われたかなという感じ。
自分には無理って思って何もしないと、現状は何も変わらないですけど、優れた作品に触れたり、打ちのめされるような思考に出会ったりすると、自分の中で着実に化学反応が起こっていくんですね。
そういう出会いにホント感謝しかないですし、これからもっと貪欲になっていきたいです。
2020年が皆さまにとって、より良い年でありますように。
ありがとうございました。m(_ _)m