十二国記『魔性の子』はいつ読むべきか? 最初に読んだ方がいいと思う派の考え方。(ネタバレあり)
ほんのよこみちです。
学校が休校になり、自宅で子どもの勉強を見る時間が増えたり、なんやかんやでストレスがたまってきたので、久しぶりに十二国記の再読を始めました。
というか、昨秋の新刊『白銀の墟 玄の月』を読もうとしたら、内容をすっかり忘れていて、これは全巻読み返さなあかんわ~って思ってたんですよね。
20年以上続いているシリーズものは、記憶が経年劣化していくので、新刊が出ると読み返しが必要になって、その読み返し自体に時間がかかると、さらにもう一度、初めから読み返さなきゃいけなくなって……無限ループ……^^;
十二国記は、もともとラノベのシリーズなので読みやすく、また作品自体が面白いので、ファンの多い小説だと思います。
その十二国記シリーズの中で、いつ読むか、意見の割れるのが、序章である『魔性の子 十二国記 0 (新潮文庫)』。
私は刊行順に読む派なので、『魔性の子 』も最初に読む派です。
(確か、講談社X文庫ホワイトハート版より、当初の『魔性の子』は若干早かった気がする……)
なので、以下、その辺を踏まえながら、あれこれ書いてみたいと思います。
(ネタバレは絶対ありますんで、そこんとこはご了承くださいm(_ _)m)
- 最初に読むことで楽しめるホラー感。
- 最初に読むことで、広瀬の視点で読める。
- 人生に「逃げる」行為は必要だが、どこかに幸福の楽園があるわけではない。
- 実はバブル日本を知れる時代本!
- あらためて思う、物語の強さ。
最初に読むことで楽しめるホラー感。
十二国記というシリーズは、中国風ファンタジー小説なのですが、序章である『魔性の子 』だけは、現代を舞台にしたホラー小説です。
(この現代を舞台にした……というあたりが曲者なんですが、そこは後ほど)
このホラー感を楽しむなら、絶対最初に読むべきなんですよ。
だって、『風の海 迷宮の岸 十二国記 2 (新潮文庫)』の後に読むと、ネタバレ状態で読むことになるので、読み方が180度変わってしまうというか……。
ここから、いろいろネタバレを書き散らしそうですので、未読の方はご注意くださいませ。
『魔性の子』を最初に読んだ場合、高里要の周囲で起こる怪異は何なのか、高里要はダミアン(悪魔の子)なのか、その辺にハラハラしながら読むことができます。
教生の広瀬は、はたして高里要を救うことができるのか? それとも殺されてしまうのか? というような、ホラーの読み方ができるんですよね。
それが『風の海 迷宮の岸』を読んだ後に読むと。
時系列的には『風の海』が先で、その後日談が『魔性の子』なので、わかりやすいといえばわかりやすいんですよ。
反面、怪異の正体もわかってしまう。
わかってしまう上、語り手である広瀬に対し、違和感を抱きかねない。
高里要・応援団みたいな視点で読んでしまいかねないので、恐怖の方向性が、完全にそっちに偏ってしまうんじゃないかと思うんですね。
とはいえ、結末がホラーからファンタジーに移行してしまうので、100%ホラーとして楽しめるかと言えば、そうとは言い切れないんですけど。
それでもやっぱり、『魔性の子』を最初に読む派として、手を挙げたいと思います。
最初に読むことで、広瀬の視点で読める。
先ほども書きましたけど、『魔性の子』の語り手は、高里要の学校に教育実習生としてやってくる広瀬です。
苗字は広瀬、名はない。
広瀬の目線で高里を見、高里にまつわる怪異を見聞し、巻き込まれて、行動します。
高里の中の悪魔性を疑ったり、高里に憑りつく妖に怯えたり、そんな特異な高里に親近感を抱こうとしたり。
そうして、高里にも広瀬にもハッピーエンドとなるような結末を、一生懸命模索します。
広瀬目線で。
そうして読むことで初めて、広瀬に突き付けられたおのれの弱さ、醜さを、読者も疑似体験として共有できるんですね。
ここ、結構重要だと思います。
『魔性の子』のテーマって、これだと思うので。
ところが『風の海 迷宮の岸』を先に読むと、広瀬目線のさらに上から読むようになります。
からくりがわかっているので。
広瀬の右往左往に「そうじゃない」とハラハラしたり、場合によっては、広瀬がおのれの弱さや醜さに冷静さを失っている場面で、彼を蔑みたくなるかもしれません。
客観視できてしまうので。
ただそれだと。
自分自身の中にもあるかもしれない弱さや醜さを、スルーしかねないんですよね。
高里を取り囲む世界目線に立つことで、真実を知っている強者側に立つ安心感のようなものに身を任せ、他者の愚かさを見下すような、読み方になってしまわなければいいんですが。
再読の場合、どうしても広瀬がイタイ男に読めてしまいます。私がそうでした。
無知って怖いよね~、と。
でも、生きている人間なら、知らないことがあるのは当たり前だし、想像したり推理したりして、目の前の年下の子を何とか助けようとするのも当たり前だし。
それで推理が間違ってたり、実は単なるエゴだったりしても、気づいたときに、少しずつでも本人が向き合っていけられたら、それでいいじゃん?
って、まあ50年も生きていると思うわけですけどね。
人生に「逃げる」行為は必要だが、どこかに幸福の楽園があるわけではない。
最初に読む派……と言いつつ、しかしより深く作品を楽しむなら、シリーズを読むどこかで再読した方がいい、とも思っていたりします。
なんだよ! って声が飛んできそうですが。
この作品のテーマをなお一層実感するには、高里の置かれた立場を知った上で読むことも必要かなと思うので。
すなわち、広瀬の思い描くような「居場所」は存在しない、と。
高里の居場所は、ある意味、この現実世界よりも過酷な世界なんだと。
ここでちょっと私事ですが、私の人生は「家出」でつくられている、と言っても過言ではないくらい、家出しています。
結婚も離婚も「家出」。
「家出」をしなかったら、多分、人生に行き詰って、幸福を微塵も感じることがなかったかもしれない、と今なら思えます。
なので「逃げる」行為は、生きていく上で必要だと思っています。
でもね。
同時に、心機一転すればすべてがうまくいくわけではない、ということもわかるんですね。
環境を変えて、自分の行動も考え方も変えて、弱さや欠点を改めようとして、それでもついてくるおのれの至らなさ。
あがいてもあがいても、自分は自分でしかないわけですから。
他者と違う自分。
他者と同じようにできない自分。
自分だけが取り残されていくような疎外感。
そんな孤独を無条件で癒してくれる楽園なんて、母親の胎内くらいしかないんです。
でも、そこには戻れない。
『魔性の子』は、広瀬の孤独感で幕を閉じます。
楽園に行けた高里と、取り残された広瀬。
誰もが、選ばれる方になりたいと思いつつ、果たして選ばれたことが幸福だったのかと、十二国記シリーズを知る人は思うかもしれません。
だってこのシリーズ、主人公に選ばれたキャラはみんな、どん底人生から這い上がることを強要されますからね。
その上、高里は麒麟だし……(生殺与奪を王に支配される存在……)
結論は、『魔性の子』は最初に読んでから『黄昏の岸 暁の天 十二国記 8 (新潮文庫)』を読む前に、もう一度読んでね! というところですかね。
(なんかもう身もふたもない……)
実はバブル日本を知れる時代本!
この本の解説を平成3年8月に菊地秀行氏が書かれていますが、初刊行ももちろんそのころなんですよね。
まさしく、バブルがはじけんとする頃ですよ。
なので、作品のいたるところに、バブルの香りがします。
大規模なニュータウンとか。
ビデオテープとか。
アンテナ立てて、遠方のアニメの再放送を見るとか。
どれももう、前時代の遺物的な扱いを受けてますよね。
でも、そんな中に、活気があったんだよなあ……。
当時を知る世代にとっては、なんともこそばゆいノスタルジックな感覚なんですけど。
若い世代にとっては、それすらもファンタジーなのかもしれません。
我々が、明治文学に抱くそれのように。
昭和の人間が、若者の感覚に圧倒されるように。
「古い」の一言で片づけてしまうのは簡単ですが、面白い作品なので、その時代性も含めて、読んでいきたいなと思いました。
あらためて思う、物語の強さ。
この『魔性の子』も含めた十二国記シリーズは、結構読者のメンタルをえぐってきます。
それでも全く嫌味にならないし、むしろ面白いと感じるのは、物語の強さですよね。
作品のテーマを、直接言葉で投げかけたら、誰もきいてくれないだろうし、敵が増えるだけ。
何を今さら当たり前のことを? ですけど、今さらながらに感じたわけですよ。
同じようなことを息子に言って、口論になったりしているのでね(^_^;)
私は数年間、小説の読めない状態を過ごしました。
その間、物語の中に透けて見える嘘加減が辛くて、ずっと逃げていました。
今、小説の面白さを感じることのできる幸せを、本当にありがたいと思っています。
まだまだもっと読みたいですね。
みなさまにとって、幸せな読書体験がありますように。
ありがとうございました。m(_ _)m