いじめ問題について思うこと② ~ 我々はいつも被害者ではない
こんにちは、ほんのよこみちです。
いじめについて思考する記事、第2弾です。
ちなみに第1弾はこちらでした。
私はいじめ加害者を全否定するつもりはありません。
いじめはつまるところ、虐待の連鎖からきているように思うからです。
それは、上の子が不登校になって以来、いろんな本を読んできて、不適切な養育とその連鎖が、子どもの心を傷つけてるのだと感じました。
たとえばこの本。
こんな記事も書きました。
子の親として、ものすごくしんどいです。
また、自分が子の立場で考えても、ものすごくしんどかったです。
半世紀に近いこれまでの人生を、全否定されたようで。
自分の子が学校でトラブルに遭い、傷つけられた場合、誰もが被害者だと認識します。
でも、何年も子育てをしていて、その間一度も、子どもに対し感情で怒ったりしたことのない方は、あまりいらっしゃらないのではないでしょうか。
たとえばお店で、おもちゃやお菓子をねだられたとき。
仕事で疲れているときに、駄々をこねて泣き叫ばれたとき。
親だって人間ですもん、仕方がないですよね。
それが、我が子に対する不適切な養育(いじめ)となっていたとしても。
いい年をした大人である自分が、心ならずもやっていたことを、まだまだ未熟なよその子がやっていたからといって、絶対に許さないとは言えませんよねえ。
自分だって、イライラを子どもにぶつけて、密かに全能感を味わっていたのでは?
じゃあ、なにが問題だったのか。
養育者自身が満たされていないと、まあそういうふうになってしまうわけですよ。
家族の協力とか、社会の協力とか。
たとえば体罰を容認するようなしつけをうけて育った場合、それが当たり前で行動しますからね。
暴力や相手を萎縮させて自分の意見を押し通すことは、社会ではパワハラとなりますけど、家庭だとしつけの一環としてとらえられる。
その実、親が自分の全能願望を満たすための行為に過ぎなかったとしても、まかりとおるわけですから、連鎖しやすいんですよね。
なので、養育者自身が、まず自分の満たされなかった子どものころの養育環境を振り返り、辛さと向き合う必要があります。
辛かったとき、本当は周囲の大人にどう接して欲しかったのか。
その上で、自分のつまずきやすい部分を認識し、どうしたらいいのか考える。
いじめ問題がTwitterで上がるとき、よく発達障害とセットで論じられたりもします。
私は専門家ではないので、何かを言う資格もないのですが。
加害者が発達障害だった場合、その親が発達障害だった場合、養育が適切でなかったということは想像できます。
だって発達障害が一般的になったのは最近の話ですし、つまりずっと多くの親が気づかないまま子育てしていたわけでしょう?
子ども本人の成長のためにより良い対応……なんて考えず、みんな一律に同じことをさせるのが子育て・教育だったんですから。
みんなが加害者なんですよ。
自分の子育てが、子どもにとってはいじめだったかもしれない。
この現実と向き合うのは、非常に苦しいです。
許しを請うなんて、絶対にしてはいけない。
子ども自身がつまずいたとき、親を怨むことすら禁じてしまったら、逃げ場がないじゃないですか。
もちろん、すべてを親のせいにして、現実から逃げるなんて不可能ですから、子どももいつかは、取り返しのつかない自分の現実と向き合わざるを得なくなります。
その現実が、いじめであったり不登校であったりしますが。
子ども自身がなかったことにできないことを、親がなかったことにしようとするのは、傲慢ですよね。
なので、やっぱりいじめ問題を加害者VS被害者にすることなんてできないし、私は被害者でも加害者でもあるし、死ぬまで背負っていかなきゃいけないことなんです。
とはいえ、大学で歴史学しかやっていない素人の独学論考ですから、「勝手なこと言ってるな~」と思われたら、まずは紹介した本を読んでいただけるとありがたいです。
どうしても自分に近い本ばかり読んでしまうので、対極にあるような論旨の本も読まなきゃいけないんですけどね。