ほんのよこみち なブログ

元不登校の高校生と、ひきこもり→就労準備中の子を持つシングルマザーが、このくにで生きることを考えながら、本と好きなことを語ります。

『モンゴル最後の王女』を読んで考えた、保身で生きることの愚かさと、知性と教養の本当の必要性。

 ほんのよこみちです。

文庫 モンゴル最後の王女: 文化大革命を生き抜いたチンギス・ハーンの末裔 (草思社文庫)』を読みました。

 

 

個人的に、私はモンゴルが好きです。

遥か昔の大学の卒論は、元朝の経済官僚についてだったし。

クビライは怖いハーンだけど、有能であることは否定できないし、でも個人的には弟のフレグといとこのバトゥの方が好きだし。

チンギス・ハーンより、彼の孫世代が好き。生々しい人間ドラマが面白い。

というようなミーハーなんですけどね。

 

この本の主人公である最後の王女・スチンカンルさんは、1927年生まれ。

チンギス・ハーンの末裔たちが、内モンゴル遊牧民として暮らしていた最後の時代の人で、激動の中華人民共和国の建国・革命に翻弄される半生を送られます。

 

中原を支配したクビライの元朝モンゴル帝国)はとっくに滅んでいますが、モンゴル高原では、チンギス・ハーン一族配下のモンゴル人たちが独自の社会をつくって、その後の中国王朝たちとうまく付き合いながら、文化や風習を守って暮らしていたわけですね。

そこに降ってわいたのが、満州国と、その後の中華人民共和国建国のための異民族弾圧と、文化大革命です。

文庫版のまえがきを読むと、ちょっと冷静ではいられません。

性的暴行というより、性的虐殺・民族大虐殺でしかなくて、ちょっと胸がいっぱいになってしまいます。

似たようなことを、日本人も戦争中にやってるよね、と思うので、辛い。

戦時中だから、平常時だから、とか言うのではなくて、他者の尊厳を著しく損なう行為として、性的暴行・虐待・虐殺は駄目です。

という頭で本文を読み始めたんですが。

本文に書かれてあることは、単に異国の少数民族問題というだけではなく、人間としての生き方そのものを、根本的に考え直す必要性にまで及ぶほど、普遍的な人間の愚かさを突き付けられる内容でした。

 

内モンゴルでの社会主義革命は、なぜ失敗したのか。

外モンゴルは独立国として歩むことができたのに、中国の一自治国に組み込まれてしまった内モンゴル

民族分断のこの国は、共産党の支配を受けるようになると、モンゴル民族の独自性を奪われ、中国化を強要されるうちに、結局革命自体の行き詰まりを迎えます。

それは、なぜか。

内モンゴルの地質調査を怠った。

そもそも土地が痩せていて、農耕に適さない地域だからこそ、モンゴル人が家畜の放牧をしていたのに、地質調査もせず、無理に農耕をやろうとした、ということですね。

結果、農業は失敗し、砂漠化が進んでしまったようです。

遊牧の合理性を無視して、家畜の飼育を単純化しようとした。

モンゴル人の家畜をすべて差し出させて、計画的に、家畜の種類別に、分断飼育しようとしたんですが、結果的に、遊牧社会にあった家畜同士の社会性を破壊してしまったんですね。

つまり羊や牛を一緒に飼育することで、家畜間のメンタルヘルスがうまくいっていたのに、羊だけ、牛だけ、と分断することで、家畜個体の不安感が増し、死亡する家畜が出たというわけです。

羊などは寂しがり屋、怖がり屋なので、他種の家畜と一緒にいることで、安心感を得たりするようです。

なので、羊だけの集団になってしまうと、心細くて病気になってしまう……ということをモンゴル人は知っていたんですが、中国人支配者たちは知らずに、家畜を減らしていったんですね。

モンゴル人社会の実力主義を知らなかった。

厳しい草原で生きるモンゴル人社会は、実力主義です。

たとえ王の子であっても、王の死亡時に幼子であったり、能力に問題があったりすると、後継者になれません。

モンゴル帝国第4代ハーンのモンケは、戦場で急な病で亡くなり、その子どもたちはいずれも年若でした。なので、弟たちによる跡目争いが勃発し、次弟のクビライがハーン位につきます。

そんな民族なので、20世紀のモンゴル人社会も搾取的な身分の上下ではなく、飼育能力の上下に付随する役割分担という感じだったようです。

にもかかわらず、公平性という名目で、飼育の下手な者にも上手な者と同数の家畜を与えてしまったため、飼育しきれずに死なせてしまったんですね。

モンゴル人たちの生活環境が、本当に悪かった。

とにかく、モンゴル人たちの農作業というのが、昼夜を問わずの軍隊調で、強制労働以外のなにものでもありませんでした。

皆、疲弊していた上、生活環境もすこぶる悪かったようです。

まず、寝場所が湿気の多い地下で、食事は一日二回・集団食堂で質素な食事を与えられるのみ。

とても健康的な生活が送れるレベルではありません。強制収容所です。

また、モンゴル人の文化や風習が根こそぎ否定されたようです。

女性が既婚者であることを示す装飾品が中国人監督官に奪われ、そのまま彼らの懐に入るなど、腐敗が蔓延していました。

心が折れる環境、というやつですね。

皆、おのれの保身しか考えず、思考停止した。

命令する側の党幹部の人間が、とにかく保身しか考えていなかったようです。

これでは、組織が腐って当然ですね。

保身ですから、上からの命令を何も考えずに弱者に押し付けるだけ。

そんな奴隷根性ですから、「何のために革命をやるのか」「方法は間違っていないか」

「世界の先進工業の技術は?」なんて一切考えない。

モンゴル人たちに出す命令も中国語で出していたため、モンゴル人たちも理解できず、考えることを辞めた。

つまり、社会主義革命も文化大革命も、くだらないいじめの拡大再生産に終始していたということですね。

成功するわけがない。

 

歴史を教訓とすべき部分。

隣国の歴史から学び、今後も隣国とつきあっていく上で、教訓とすべき点を、いくつか考えてみました。

調べることと考えることを怠らない。

現状がなぜそうなのか、自分の目指すところがなんであるかを掴み、そのための手段として最適なものは何かを調べて、学んで、決定して行動する、知性が必要です。

日々の生活においても、自分は何をやっているのか、それは世界的にどういう立ち位置なのか、情報を集めたり思考したりして、次にどういう手を打つのか、考えて行動する。

うかうかしていると、グローバル化の時代、辺境の少数民族で終わって奴隷化しかねないです……。

自分と違う他者の尊厳は、絶対に守られなければならない。

自分と同じように、他者も大事にされるのが当たり前です。

我が国もかつての植民地政策時代、他民族の言語や名前、風習などを、日本風に改めることを強要した時代があります。

民族差別などは、現代でも横行しています。

全然威張れる状況ではありません。

だからこそ、身近な場所からでも、自分と違う他者の尊厳は、意識的に守っていかなければならないのです。

抗議をするなら、身を正してからですね。(でも、する。弾圧は、絶対に駄目です)

中国人の大中華思想を見誤らず、つき合う覚悟を持つ。

中華思想というのは、この本で知ったのですが、中国=スタンダードという漢民族第一主義を、広く国外にも広め、異民族も中国化洗脳していく……という思想ですね。

相変わらず、考えることが大国主義です。恐ろしい。

こんなのが隣にいて、つまりは領土拡大を図って、中国化した地域をどんどん増やしていこうと考えているわけですからね。

まともにやりあっても、経済力でも軍事力でもかなわないし。

しかも、日本をとりまく大国は他にもあって、どいつもこいつも自国の利益優先でしか動かない連中ですからね。

弱小国は頭を使って、これまでにない方法を新たにつくり続けていくしか、生き残る術はないんだよなあと思っています。

大国のマネをしたり、どこか一国に寄りかかったりして、何とかなると思う浅はかさ。

自立して自律しなきゃあかんのです。これまでにない方法で。

という覚悟が、マジで要るなと思いました。

もっと独自外交を開拓していかなあかんやろ、ということですね。

どこかの国に従ってりゃ大丈夫だろう……なんて夢見過ぎ。

この奴隷根性が、そのうち我が首を絞めるんだろうなあ、と思うんですがね。

 

おわりに。

 というようなことを、この本を読んで考えました。

感想としては、やっぱり社会主義革命も文化大革命もよくわからない、ということですかね。

正気でやっているとは思えない事柄に、従うしかなかった全中国の少数民族の方々に、かける言葉もありません。

ストレス発散の矛先を少数の標的に向けて、ただただ拷問にかけただけ。

他者の行動を自分の思い通りにできるという、万能感に浸っていたかっただけ。

分別のない子どもの所業ですね。

でも、こういうことをやりたいという願望は、実は人間すべての中に潜んでいるので、わが国でも小規模なことは日常的に行われていたりします。

いじめとか、ハラスメントとか、虐待・DVというかたちで。

自分でも気づかぬまま増殖していくこの手の願望を、いかに抑えるか。

それが、最も教訓とすべきことなんですよね。

自分の胸に手を当てて、考えていきます。

ありがとうございました。m(_ _)m