ほんのよこみち なブログ

元不登校の高校生と、ひきこもり→就労準備中の子を持つシングルマザーが、このくにで生きることを考えながら、本と好きなことを語ります。

双子のライオン堂さんの『めんどくさい本屋』の使い方を、不登校・ひきこもりの母として考えてみた。

 ほんのよこみちです。

赤坂の選書専門の本屋さん・双子のライオン堂さんの店主・竹田さんの本『めんどくさい本屋―100年先まで続ける道 (ミライのパスポ)』を読みました。

 

  

 あらまし

 この本は、著者である竹田さんが、双子のライオン堂の今の活動にいかにたどり着いてきたのか、その遍歴が描かれています。

学生時代に文学に出会い。

いじめから不登校を経験。

ネット古書店を立ち上げたり。

学校に復帰して、大学で文学を学んだり。

就活は、リーマンショックによる内定切り

その後、就職したりバイトをしたりしながら、実店舗の書店運営に漕ぎ出していく。

そんな生き方が記されています。

 

読みながらまず感じたのは、これはこちらがわの本だ~! でした。

こちらがわって、どちらがわだよ?

ハイ、この手の人生経験を語る自己啓発的な本、うちの上の子が高校を辞めた7年前から、いろいろ読んできたんですよ~。

 

不登校・ひきこもりの子を持つ親は、もう藁にもすがる思いで、自営業とかフリーランスで頑張っておられる方の本を、読みまくる時期があるんですね。多分。

大卒新卒入社→正社員で終身雇用、というのが昔の成功体験でしたから。

我が子がそこから外れると、別のすがれる成功体験を探しまくるんです。

 

なので。

この本は、一応若者向けの本ということのようですが、私は親世代向けの本だと思います。

親や若者の指導的立場にある人が読むことで、若者を支えられる本。

 

だからといって、若い人が読んじゃマズイというわけではないんですが、ひとつ注意が必要かも。

育った環境は人それぞれなので、落ち込まないで、ひと呼吸おいて、できることからやってみて下さい。

 

以下、考えたことをつらつらと書かせていただきます。

 

親として読む場合

この本を親として読む場合の注目ポイントは、竹田さんのご両親の寛容さだと思います。

竹田さんの人生は、その選択のことごとくを、ご両親が否定せずに受け止めていらっしゃる、その信頼感の上に形成されているのだと推測します。

 

普通、息子が、それ単独で生計を立てるだけの収益があげられないとわかっている業種に参入したいと言ってきたとき、反対しない親なんていませんって。

男の子で、ましてや結婚を考えた彼女がいて、本屋どころじゃないだろう? って、多くの親が言うはずです。

ちゃんとした会社に就職することを考えなさいって、まず思いますよ、親は。

周囲の母親たちからも、程度の差こそあれ、そういう声は聞きます。

 

でも、そうやって押さえつけていたら、今の竹田さんはいなかったわけですもんね。

ひょっとしたら、不登校時代を乗り越えられなかったかもしれないし。

 

例えば大学で文学を専攻されてますけど、東京の学生さんは、文学部男子って普通なんですかね。

私は田舎もんでバブル世代なので、状況は全然違いますが、地方の男子学生にとって文学部はとても遠い存在だったような気がします。

男子なら、就職を考えて、経済学部か法学部、というような。

うちの田舎(のバブル期)では、男子学生が入学できる文学部って、国立大学しかなかったので、偏差値も高かったし狭き門でした。

就職を考えて、東京や大阪の大学に進学する男子も多かったですが、そういう場合、経済学部とか、あと理系の学部でしたね。

昨今はどうなんだろう。

 

文学部の地位が低下中の世の中ですから、文学部に行くと、のちのち苦労するかもなあって、普通の親は思います。

まして、竹田さんが大学進学されたころって、もう就職氷河期って言われてた頃だし。

「文学部もいいけど、経済学部の方が就職ラクかもよ?」

「公務員試験を考えて、法学部はどう?」

親ってついつい先回りして、そういうレールを敷きたくなるんです、わかります。

 

そういう余計なことを一切しないで、子どもの興味が向くままに学ばせて、経済的に厳しい道でも、その選択を尊重して、なおかつフォローまでしている。

我々親世代が学ぶべきは、竹田さんのご両親のその姿勢ですね。

 

というふうな読み方をしていると、時々反論が聞こえてくるんです。

「同じように子どもに接したのに、うちの子はダメだった」とか。

「もともと能力のあった人の人生だから、普通の人間が真似したってダメなんだ」とか。

 

人間は、工業製品じゃないですからね~。

竹田さんの人生をトレースしたって、それが我が子に合っていなければ、やり方をトレースしたうちに入んないんですよ。

トレースされること自体を嫌がる子もいますし。(うちの第一子だ~)

「母さんがよそで仕入れてきた子育て方法の実験台にすんな」って、よく言われました。

 

そう。

表面的なノウハウじゃなくって。

真似するべきは、魂なんだよ~。

 

ということで、親が子どもを信頼し、子どもの選択をフォローすることこそが、子どもの人生を花開かせる。

親に信頼されている子どもは、他人を信頼することもできますからね。

だから、人柄の良さとなって、竹田さんの周りに人が集まってくる。

 

我が子と言えど、我が子だからこそ、絶対的に信頼するのは、難しいです。

親だって人間だし。

でも、信頼力の結果を見せつけられたら、親自身が変わるしかないですよね~。

子どもの人生の選択は、子ども自身の出した答えが、正解です。

その子に合ったフォローを、その子のペースに合わせて、その子の成長を妨げない程度に、信頼して行う。

親業って、ホント奥が深いです。

 

人生に悩む若者として読む場合

まず、この本に出てくる竹田さんのご両親みたいな親は稀だ! という前提で、読んでほしいと思います。

じゃないと、自分の環境と比べてみたときに、辛くなるから。

 

世界中の親がすごく子どもに対して理解があって、自分の親だけがわからず屋……というわけではありません。

たいていの親は、自分のよく知らない世界(起業)とか、利益の見込み難い職業(本屋)とかには、難色を示します。

 

私も若い頃、古本屋さんをやりたいって思ったけど、親を説得できるだけの事業計画書が書けなかったので、諦めましたもんね。

ほぼ同時期に同じ市内で、蟲文庫さんが事業を始めてらしたので、できる人はできるんだと思いますが。

 

わたしの小さな古本屋 (ちくま文庫)

わたしの小さな古本屋 (ちくま文庫)

  • 作者:田中 美穂
  • 発売日: 2016/09/08
  • メディア: 文庫
 

 

当たり前ですけど、読者は全員、竹田さんじゃありません。

同じようにやってみようとしても、できないこともありますし、家族の協力や金銭面ではばまれることもあるでしょう。

竹田さんの日常はものすごくハードで、体力的に無理って感じる人もいると思います。私もそうです。子どももいるし。

 

でも。

この本が問いかけてくれているのは、「〇〇じゃなきゃダメって、自分の人生を追い込まなくてもいいんじゃない?」ということなんじゃないでしょうか。

 

正社員で働いてないとダメ、とか。

好きなことを目指すなら、それを本職にして食べていけるようにしなきゃダメ、とか。

そんなふうに追い込まなくたって、もっと柔軟な生き方を自分に許したって、いいんじゃない? と。

こんな世の中ですし。

 

個人的な話なんですが、この本を読んでいるとき、我が家の第二子の宿題で「未来への計画書」みたいなのが出まして。

うちの子は不登校経験者で、私立の通学型通信制高校に入り、イラストの勉強ができるコースに所属しているんですが。

でも、本人にイラストレーターを目指す気はなく、画力もそこまでではなく、ただ「同人誌つくりたいなあ」という希望のみで入学したので。

「未来への計画書」、当然他の子はガチなのをつくってくるんだろうなあ、先生もそういうのを期待してるんだろうなあと、びびってたんですよ、本人が。

 

でも、この本を読んで、割り切れました。

収入を得るための仕事と、収入を期待しない絵を描くことと、その2本立てでいきますって計画書を出したって、なんの問題もないじゃん。

その気もないのにイラストレーターへの道を書いたって惨めなだけだし、むしろ現実的。

収入を得るための仕事にしたって、自分に何ができるか、何が向いているか、収入を期待しない仕事との接点を探すのか、全く違うものにして視野を広げる材料にするのか、考えるべきことはいろいろあるわけで。

 

いえ、子どもの宿題に、親が本気になっても仕方ないんですけどね。

方向性を提示することはできるかな、と。

多分、こういう二本立て人生って、学校の先生方も指導しづらいだろうし。

てか「趣味を将来の夢に入れるな」とか言われそうですが。

時代はどんどん変わりますからねえ。

 

今のコロナ禍を経て、もっと社会は変わっていくでしょう。

やっぱり個人経営のお店は大変じゃん、って思う人もいるでしょうし、公務員志向が強まるかもしれないし、日本に見切りをつける人も出てくるでしょう。(でも出国はできない地獄かも……)

どんな選択をしても、自分で選んだ答えが正解。

自分の気持ちに偽りなく、自分が決めた答えが正解だと思います。

 

そして

この本の中の対談を拝読していても思うのですが、やっぱり双子のライオン堂って竹田さんのお人柄なんですよね。

育ちの良さがあふれ出るお人柄。

だから、お客さんだった田中さんや、同業者である松井さんが、運営側に回っておられたりする。

 

結局、近道はないということですかね。

どんなすごい事業アイディアを思いついたとしても、ひとりの人間の能力には限界があって。

誰かに協力を願おうとすれば、それは金銭で解決できることもあるかもしれないけれど。

でも本人の人柄がよくなければ、得られる助力も変わってしまうのが現実。

私も、人柄で損してる社長さんを、もう何人も見てきましたから。

 

今、こういうご時世で、実店舗としてのライオン堂さんにお邪魔したり、イベントに参加される竹田さんを追いかけていくことは、まだまだかなわないです。

本を買うのはネットでもできます。

でも、やっぱり本屋さんで買いたい。

本屋さんがなくなったら困る、と、今回ほど思ったことはありません。

 

コロナが終息したら、また、あちこち本屋さんにいきたいです。

いろんな店主さんにお目にかかって、お店作りを見て……。

そういう日常だったことが、贅沢なこと、になってしまうのかもしれませんが。

本屋さんが100年後も、人々の前に開かれた場所でありますように。

 

ありがとうございました。m(_ _)m

 

liondo.thebase.in

 

 

 

十二国記『華胥の幽夢』を読んで考える、政権に物申すとはどういうことか。(ネタバレあり)

 ほんのよこみちです。

十二国記を細々と読んでますシリーズ、『華胥の幽夢』です。

 

華胥の幽夢 (かしょのゆめ) 十二国記 7 (新潮文庫)
 

 

それにしても、この『華胥』の胥っていう字、なかなか出て来なくて難儀しました。

出て来なかったのに、上の⤴リンクを貼った瞬間から、出てくんの。

すごくAmazonさんに負けた気分……💧

 

概要

この本は、新潮文庫ではエピソード7ということになっています。

講談社文庫版だと、『黄昏の岸 暁の天』のあとだったと思うんですが、もうだんだん好き勝手読んでます^^;

 

『華胥の幽夢』は短編集で、これまでの作品群のあとの話が収録されています。

泰麒の、祥瓊の(月渓の)、陽子の(楽俊の)、利広の、それぞれの後日談。

表題作?である「華胥」のみ、前日談ですかね。

 

なにしろ、登場人物の大半が超長生きな人たちなので、これいつの話? なのが結構あるのでね、十二国記は。

同じキャラクターがいる状況で、云百年が普通に経ってるというのは、時に感覚を混乱させてくれます。

 

以下、ネタバレありますので、ご了承ください。m(_ _)m

 

 

「華胥」で考える、無能でも生きられる世界

「華胥」は才国のお話で、悪政を敷いた前国王を倒した若者たちが、次の政権を担ったものの、行き詰まりを感じている、そういう状況の物語です。

前国王と同じ過ちを犯してはならない。

新王も新官僚たちもそう思い、同じ過ちを犯さないような国政を敷くものの、うまくいかない。

なぜか。

 

そんな中で、新国王の弟である馴行(じゅんこう)の言葉が、刺さるんですよね。

兄王の思い描く国には、愚かで無能な者の居場所がない、と。

 

悪政という見本を見てきた以上、前王とは逆の政策を取っていくことで、善政への道を目指そうとします。

腐敗のない、理想的な国家を思い描きます。

勤勉で、善良で、謙虚で、知性的で、有能な人間たちの、理想的な国家。

王や官僚たちがそうであれば、民衆もそうであろうと思い描く、夢の国家。

 

でも、そこには人間の弱さや愚かさの入る隙間はない。

能力の高い人たちには、そこに至らない人たちの苦悩がわからない。

無能で愚かな人間は、この国で存在を許されていないのではないだろうか? と。

 

なんか、自己責任論とか、障がい者差別にも通じるものがありますね。

生産性で人間の価値をはかるような言葉も、以前、出回りましたが。

能力云々に関係なく、健康で文化的な最低限度の生活を国家が保障するのがわが国なんですけど、それは建前に過ぎないとか、きな臭い方向に向かっています。

近代国家の歩いてきた道を、逆走するような思考ですねえ。

 

実は私も、勤勉で善良であるというのは、仕事をする上での当然の覚悟であろう、と思っていました。

いかに手を抜いてラクして稼ぐか、って、恥ずかしくない? と。

仕事中に無駄話したり、ネットサーフィンしたりって、どうよ? と。

やる気がないなら、仕事に来るな! ぐらいの気持ちでした。

 

でも。

自分の能力だって、さほどでもないですしねえ。

喋ってないと死ぬような人って、実際にいますし。

隙あらばさぼろうとする、仕事を自分事として取り組めない人も。

 

いろんな人がいて、得意不得意を補い合いながら、社会を回していく。

そういうもんだって割り切って、自分ができることからフォローに回るようにするしか、ないのかもな、と。

 

 

理想や理念を持つことは、確かに重要です。

ただ、現実に生きている人間って、理想どおりにはいきませんから。

そこのエラー具合をいかに許容できるか、受け止めてフォローできるかが、よきリーダーの資質として、問われる部分なんでしょうね。

 

いろんな能力、いろんな資質の人がいてこその国家ですから。

他者に危害を加える行為を必要悪とは思いませんが、その人の更生に力を注ぐのもまた国家。

目端のきく人のように、自粛で減った売り上げをカバーする新商品をつくれなくても、命の重みに変わりはない。

 

まあ、できない理由ばかりを並べて、現状肯定しかしないくせに、他者に悪態つくような奴は、もう知らんわって言いたくなりますけどね^^;

 

「華胥」で考える、政権批判をすることと政策立案することの、2段階性について

「華胥」という物語の肝が、政権批判することと政策立案することの差異について、のくだりだと思います。

 

現政権が重税を課していることに対して、批判する。

批判が的を射ていて、賛同者が多く集まり、政権を倒す。

でも、この段階では、何も成していない、という批判ですね。

政治とは何かという本質をわきまえた上で、対案を立て、実行すること。

そこまでやらないと、施政者として成したうちには入らないと。

 

確かに、そうです。

国会でも、野党が批判から入るのは、野党という性質上、構造的に仕方のないことなんですが、対案が弱いとパンチに欠けます。

ただ。

 

「華胥」で前政権を批判していたのは、若者たちで。

彼ら彼女らは政治というものを理解していなかったかもしれないけれど。

十二国記の世界で、政権につくというのは絶対権力を手にすることですから(ただし、道に背けば死が待っている)、政治素人が権力を持つのは、危険極まりないんですが。

それでも。

 

対案を出さずに批判するな、と言っているようで、それは若者の口を閉ざさせてしまうことにつながるので、残念に思いました。

 

個人的には、おかしいと思ったことをおかしいと言うことは、非常に大事なことだと思います。

賢い権力者が、若者に政治を学ぶ機会を与えなかったら、対案を考えられない若者は、どんな悪政にも耐えなければいけなくなりますからね。

それは、良識に反することです。

 

政策がおかしいと言われたとき、まず対案を考えるべきは、現政権でしょう。

そのために、国家権力の座についているわけですから。

自らの仕事を他者に押し付けて、平然としているのは、これまたおかしい。

 

「華胥」で問題になるのは、批判していた若者たちが、まとめて政権側に入ってしまったことですね。

野にあった間は、批判だけしていてもよかった。

けれど、一歩政権内に踏み込んでしまったら、政策立案できませんじゃすまされない。

ここの2段階部分をいっしょくたにしないように、ちゃんと分けて考えられるように。

 

個人的に「華胥」に登場する慎思という女性が、私は苦手です。

批判される側より有能でなければ批判する資格がない、なんて言ったら、誰も批判できなくなってしまうから。

他者の諫言を封じる思考ですね。

危険です。

 

「帰山」も興味深い

「華胥」以外の短編も、それぞれ面白いし、読んでいて学びになる部分があったりもします。

冒頭にも書きましたが、これまで登場したキャラ達が出てくる作品ばかりなので、時系列はいろいろですけど、すっと入って行けます。

 

利広の出てくる「帰山」は、奏の太子ゆえの圧迫というか、現役最長国ゆえの怖さが描かれていて。

国が斃れる時期の一つに、その王の死にごろ……なんて言葉が出てくると、一気にファンタジーなのに現実味を帯びてきます。

未来が怖くない人なんて、いないんですね。

 

ということで

十二国記もなんとなく読み進めてきて、残りの冊数が少なくなってきましたが。

てか、最新の2冊を買えてないんですけどね、自粛で。

ネットで買うことはできますが、できれば帯つきが欲しいんで。

こんなに自粛が長くなるとは、2月は思っていなかったですからねえ。

読みが甘かったです。

 

とはいえ、まあ、読書に充てる時間が増えたのは確かなので。

マイナスばかりでなく、プラスの発想にも持っていきたいところです。

今、記事にまとめるのが追い付かないくらい、読んでいるので。

読んで、メモして、考えて、メモして……ってやっていると、面白い。

人生、生きているうちにどれくらい楽しめるか、ですからね。

楽しみも自己完結しなきゃいけない昨今ですが、そこから新しいものがどんどん生まれていたりもするので。

 

今日も明日も良き日でありますように。

ありがとうございました。m(_ _)m

十二国記『図南の翼』を読んで考えた、最高権力者としての自覚と行動について。(ネタバレアリ)

 ほんのよこみちです。

ゆるゆると十二国記も読んでいます。

新潮文庫では『風の万里 黎明の空』の次は、『丕緒の鳥』になっているんですけど、

古参ファンの感覚では『図南の翼』が次なんだよね~。

なので、個人的な偏見で、次は『図南の翼』です!

 

図南の翼 (となんのつばさ) 十二国記 6 (新潮文庫)
 

 

この作品は、『風の万里 黎明の空』にも出てきた供王・珠晶が、王になる前のお話なんですね。

王になる前? 王になるまで、です。

つまり、『風の万里 黎明の空』までを読んでいる読者には、珠晶が王になるというオチは見えているので、そこまでのくだりをどう面白く書くか、という小野不由美さんの手腕が問われる作品なのですが。

いや~、面白かったです。

 

個人的に、前作で祥瓊を叱り飛ばした、威勢のいい珠晶が大好きなんですけど。

12歳の気の強い生意気な少女が、苦難の道のりをどう歩むか。

主役にラクはさせない作者として定評のある方ですが、これは今こそ読むべき作品ではないかと思いました。

 

自分の身を守る意識は大切

今作は、12歳の珠晶が、王になるために、妖魔の棲む黄海を旅するお話です。

護衛として、黄海に詳しい頑丘という男を雇い、彼にああだこうだと言われながら、珠晶は旅をします。

 

しかし、旅の途中で知り合った他の大人たちは、素人ばかりで妖魔の世界に踏み込んでいたり……。

当然、素人集団は苦労するし、次々と死者を出します。

そんな大人を見ていて、なんとか助けられないものかと、珠晶は考えますが、護衛の頑丘は自己責任論を持ち出します。

 

この辺のくだりを読んでて、今の自粛世界と通じるものがあるなあと、思ってしまいました。

特に、緊急事態宣言が出る直前の世界、とかね。

「大丈夫でしょ」って、出歩いてる人がいる。

「感染が怖いから」って、家にいる人もいる。

絶対安全なんてものはないから、個人で考えつく限りの対策をするべきか。

「大げさだよ」という声に流されて、同調すべきか、ラクをすべきか。

 

自己責任論って、正直好きではありません。

人間は、地球規模で考えると弱い生き物なので、助け合う方がいいと思っています。

ただ。

それも、自分が死なないという前提がある場合でのお話。

生きるか死ぬかの分岐点に立った時、自己判断が未来を左右するのであれば、自分の命を守るための選択をすることは、絶対必要だよね、と。

 

だから、防護服もマスクも満足にない状態で、医療従事者の方々が退職を決められたって、文句を言う筋合いはないわけです。

スーパーやコンビニの店員さんが辞めて、営業時間をどんどん短縮されていったって、文句なんて言えないわけです。

皆さん、ご自身の命を守る選択をされてるだけなんですから。

当たり前の選択をしているだけなんですから。

 

自分が生き残るためにどう行動するべきか。

そんなの、誰かに言われて右往左往するんじゃなくて。

自分で考えて、自分で判断して、自分で決めることは必要だよなあ、と。

『図南の翼』を読んでいて、すごく感じました。

 

100%自己責任論じゃなくて。

でも、政府に言われなかったら何もやらないんじゃなくて。

自分でどうするか、考えること。

そのことを、読みながらずっと考えていました。

 

国家元首の命は大事かもしれないけれど、国家元首自身がそれを考えたら終わり

『図南の翼』のもう一つのテーマは、権力者側の倫理観についてですね。

物語に登場する旅人は、皆「我こそは王になる」という意識で旅をしているので、妖魔に遭遇すればするほど、その倫理観が試されるようになります。

 

すなわち。

自分の命を粗末に扱ってはならない。

でも、王になるかもしれない自分の命が大事だからといって、自分の身を守るために他者を踏みつけにしてはならない。

 

珠晶の、素人集団に対する同情(無知ゆえに危険なことを平気でやっていることへの同情)は、最初は子どもの正義感でしかなかったかもしれません。

無知な奴が囮となるからこそ、妖魔から生き延びられる、その事実は否定しようのないもので。

だからといって、その状況を肯定し、自らの身の安全のために、他者を見殺しにしていたのでは、天はその者に王位を与えないんですよね。

与えたとしても、すぐに国家を傾けちゃうだろうしなあ……。

 

国家元首とは。

自らの身の安全を最低限確保しつつ、国民の窮地を決して見捨てないで、助けに行く者。

ひとりの血も流さずにすむことはできないと知った上で、悪し様に言われたとしても、ひとりでも多くの国民の命を守りに行こうとする者。

 

この認識、今、すごく必要じゃないですか?

国を動かしている方々に。

 

物語のきれいごとじゃん? 現実はそううまくはいかないよ?

いや、現実の方がもっと大変だからこそ、理念がないとどうにもならないんじゃないですかね。

行き当たりばったりのその場しのぎでは、この危機を乗り越えられない……。

 

十二国記の王たちは、もちろん架空の人物たちですので、有能だったり理知的だったりする王がいますよ、そりゃ。

今作の珠晶も、本当に自分をよくわかっていて、ものごとの道理もよくわきまえている、理想的な王様です。

だから、現実の政治家と比べるのは不公平だ、というのもわかります。

 

しかしね。

ちょっと見習ってほしいなあと思っても、ばちは当たらん気がするんですよね~。

我々国民も、あんまり政治家に対する期待値を下げてたら、その政治家の歴史的評価を下げるだけなので、政治家本人のためにならないんじゃないかなあって……。

 

まとめ

『図南の翼』を読んで考えたことと言えば、

  1. 国民も怠惰にならずに自分で考えよう
  2. 政治家は、死なない程度に自分の身を守りつつ、国民を守るために行動しよう

ということですかね。

 

まあ、国民に限って言えば、考えることのできる人とそうでない人がいますから、(考える訓練を受ける機会に恵まれた人とそうでない人、とも言えます)仕方ないんですけどね。

政治家は、考えることのできない人がなっちゃ、あかんでしょう?

 

この作品、初出は1996年2月なんですけどね。

現代の方が、より響いてくるのはなぜだろう。

 

ひょっとして、文学の読み方としては、邪道なのかもしれませんが。

半世紀以上、生きちゃうと仕方ないよね~、今さらねえ。

一つの意見として、おおさめいただければ幸いです。

 

ありがとうございました。m(_ _)m

十二国記『風の万里 黎明の空』を読んで考える、人は強くなければならないのか。(ネタバレあります)

 ほんのよこみちです。

十二国記の『風の万里 黎明の空』も読んでます!

 

まあ、十二国記を読むのは辛い部分もあるので、こんな時に読むのはどうよ? と思ってしまう部分もあるんですけどね。

 

風の万里  黎明の空 (上) 十二国記 4 (新潮文庫)

風の万里 黎明の空 (上) 十二国記 4 (新潮文庫)

 

 

風の万里  黎明の空 (下) 十二国記 4 (新潮文庫)

風の万里 黎明の空 (下) 十二国記 4 (新潮文庫)

 

 

この作品は、十二国記の世界において、地方官僚の不正悪行とどう戦うか……というお話です。

上巻はひたすらに辛く、故に後半はすごく面白く読める作品ですね。

わくわくさ加減で言うと、これまでのシリーズ中、一番じゃないでしょうか。

 

それと同時に、人はどこまで強さを求められるのか、という問題と向き合うストーリーでもあります。

 

陽子、祥瓊、鈴という3人の少女が、思うようにならない環境に放り込まれ、もがきながら、自分の弱さや醜さを突き付けられていきます。

今回は、3人が向き合わねばならなかった現実と、でも本当にそれらは本人だけの責任なのか、その辺を考えてみたいと思います。

シリーズを通してのネタバレがあるかもしれませんので、その辺はご了承ください。

 

 

言動を全否定されても、立ち向かえるか。

主要登場人物のひとり、陽子は、人の顔色をうかがいながら成長してきました。

故に、自分よりも年長で有能だと思われる官僚たちに全否定され続けると、自信を失います。

あからさまに莫迦にされている、四面楚歌な状況に陥り……要するにハラスメントなんですけど。

 

でも、ハラスメントなんてのは、それが駄目だという共通認識がある社会でしか成り立たないものなんですよね、残念なことに。

無知無能なヤツこそ罪……みたいな認識がまかり通るような社会では、何も言っても無駄。

昭和の日本みたいに。

 

特に、陽子の立場は王ですから。

いかんせん、普通の女子高生だった陽子には、政治の世界はわかりませんから、当然と言えばそうなんですけど。

周囲の官僚たちからしてみれば、「使えねえヤツ」となっても仕方がない。

民主主義だったら、そんな人選はありえないんですけどね。

物語の展開上、陽子に拒否権はないので……。

残酷と言えば、残酷な話です。

 

また、汚職し放題の奸臣たちからしてみれば、陽子をいじめて傀儡にしておけば、好き勝手に私腹を肥やせるわけですからね。

いじめないわけがない。

ひどい話ですが、権力の裏側なんて、だいたいそんなもんですよね。

人間の歴史的に。

いざとなれば、知らぬ存ぜぬで、誰かに責任をなすりつけて逃げてしまう。

 

これが人間の弱さ醜さかと、知れば知るほど、標的にされた人間は、心身共にぼろぼろになっていきます。

私にも心当たりがないわけじゃないんで、陽子の状況は、読んでて本当に辛い……。

 

そんな中で陽子は、現状を打開するために、行動を起こします。

自分を全否定してくる連中をどんなに否定したくても、まずは自分の不足部分を知り、学び、成長することなんですね。

強くなったな……と思うとともに、延王・尚隆がメンターの役割を果たしていることも、彼女を前進させている要因かもしれません。

目の前に、有能な名君としてのお手本があるわけですから、嫌でも成長の必要性を感じるでしょう。

 

ハラスメントが良くない、というのは、大前提として存在するんですが、でもそれだけではどうしようもないのが現実で。

自分の言動がハラスメントにあたるか否か、なんて、自分では気づかないものですからね。

だから、自分で前に進むしかないんですよね。

至らない自分、に立ち向かう方が人生の近道だと、終始語ってくれるのが十二国記です。

 

親の罪を子どもはどこまで背負わなければならないのか。

一方の祥瓊は、芳国公主であったものの、父王の圧政に苦しんだ民衆から責められて、苦難の日々を歩みます。

何も知らず、お姫様としてちやほやされてきた祥瓊が、最下層の生活に落とされ、いじめられて暮らすというのは、読んでいて辛いです。

 

我々は誰だって、幸せないい暮らしをしたいと思う。

日本人は特に「損をしたくない」民族ですから、「他人以上に自分が裕福でありたい」とつい思ってしまう心根もあります。

それは、否定しがたい。

 

ただ、祥瓊が求められたのは、人より裕福な生活を親に与えてもらった人間は、その自覚を持って生きなければならない、ということで。

ちょっと前の東大の入学式か何かで、そういう言葉が出ましたよね。

私も、そんな記事を書かせていただきました。

 

www.honno-yokomichi.com

 

 人生っていうのは、本当に運に左右されていると思います。

誰もが、親を選べない。

いや、親を選んで生まれてくるんだっていう人もいますけど、それ、選ばされてるっていうのも含めてじゃないですかね?

家庭環境を自己責任にしてしまうのは、人間の言葉じゃないです。

 

それが、裕福な環境に生まれた子にも言えるのか? ということなんですよね。

裕福な立場で、親が人の道に悖る行動をして、立場の弱い人たちを苦しめた(虐殺した)場合、その責任を子も負わねばならないのか。

 

個人的には、親の因果が子に報うというのには反対です。

親子であっても別人格だし、親が罪人でも子に罪はありません。

 

ただ、それとは別次元の問題として、民衆感情が存在するということなんですよね。

しかも、恵まれた立場にある人間は、他者よりも裕福であるが故に、愚かでいることが許されない。

民衆が苦役についている時間分、苦役につかなくていい代わりに、世界を学んで賢くあらねばならない。

それが、民衆の求める、権力者の子の姿ですから。

 

これは、逆差別だし、理不尽なことだと思いますよ。

好きで権力者の子に生まれたわけじゃないし。

ただ、それでも恵まれていたことに変わりはないわけですから。

 

我々も、そういうことを考えなきゃいけないんだと思います。

日本に生まれたが故に、生まれながらに持っているものと、そうでないものについて。

自分の立場ゆえに持っているものと、そうでない人のことについて。

 

パワハラには、負けずに対抗しなければならないのか

3人目の少女・鈴は、陽子と同じ、日本から十二国記の世界に流れ着いてしまった海客で、それゆえに言葉が通じないという苦難に向き合います。

誰とも話ができず、底辺の生活をしながら旅をしていて、仙人の梨耀という女性に出会い拾われます。

仙人であるが故に、梨耀とは言葉が通じたんですね。

梨耀の下僕となることで、鈴も仙籍にしてもらえ、他の下僕たちとも言葉が通じるようになります。

 

ただ、梨耀のいじめはすさまじかった。

鈴がターゲットにされ、いじめがどんどん増長していくことで、他の下僕たちからも辛く当たられるようになります。

逃げたいと思っても、逃げて仙籍を外されたら、また言葉の通じない世界に逆戻りですから、それが怖くて、ひたすら我慢し続けます。

命の危険を感じるまで。

 

これはもう、パワハラ以外のなにものでもないですし、閉ざされた翠微洞の中でのパワハラですから、鈴が思考停止したって仕方ないよね、と思うんですが。

まだ見たことのない景王に希望を抱いて、自分を救ってほしいと思うくらい、とがめられることじゃあないよなあ、と。

 

なので、嫌だと言わないお前が悪い、みたいな方向になってしまうと、それは強者の理論だよって思ってしまいます。

パワハラしてくる相手の気持ちを考えないって言われても、それを考えられる余裕があれば、とっくにやってるって。

特に、鈴のように追い詰められた人には、何らかのケアが必要なんじゃないかと思うんですがね。

 

確かに、鈴がどんどん意固地になっていく様は、見ていて歯がゆいものがあります。

可哀想なのはお前だけじゃない、って言いたくなる気持ちもわかります。

それだけの強さが、それでも鈴にはあったから、まだ倒れずに前を向けたのでしょう。

でも、もっと弱い人間だったら?

死んでいたかもしれません。

 

自分は世界一可哀想で、他の人は自分よりみんな幸せ……そう思ってしまうと、確かに世界を狭めます。

そんな人の不幸アピールにつき合っていると、しんどくもなります。

ただ。

自分って実は不幸だったかもしれない、と気づくことも、必要な場合があるんですよね。

そこに気づかないまま、日常生活を送っていると、自分が受けた仕打ちを、平気で他者にも仕向けるようになるので。

ハラスメントの連鎖、ですね。

 

キャラクターたちの強さに、めげる必要はない

陽子も祥瓊も鈴も、芯の強い人だと思います。

彼女らの強さには、脱帽するしかありません。

しかし、だからといって、弱い人間が引け目に感じる必要もないと思うんですね。

強いとき、弱いときというのは人それぞれで、特に今は多くの人の心が弱まっているときかもしれません。

でも、それはその人のせいじゃないですし。

 

個人的には、いろんな本を読んだり映画を観たりして、いろいろ感じて、個々人が考えていくことで、その人に応じた変化が少しでもあれば、いいのかな、と。

十二国記のシリーズを読んでいくことで、考えることが増えていくのなら、それでいいのかな、と。

 

フィクションだから、自分とは関係ない、と切り捨てることもできるでしょう。

現実が辛いんだから、物語の世界くらいは、夢だけ見ていたい、と。

それもいいですけど、ちょっともったいない気もします。

楽しむためのエンターテインメントとして、消費に徹するのは。

人間は、この世の「お客さん」ではいられませんから。

 

まあ小説ですから、それぞれがそれぞれの楽しみ方でいいと思います。

説教臭いから苦手……でもいいと思うし。

ただ、陽子たち三人の、不器用だけど前向きに立ち上がろうとする生き方は格好いいので、そこは見習いたいなと思います、私は。

仙籍ではない人間の寿命なんて、たかが知れてますから。

 

十二国記の面白さを、少しでもお伝えできたら……というより、前半の辛さを、少しでも緩和できたら、幸いです(なんじゃそりゃ)。

ありがとうございました。m(_ _)m

『武器になる思想 知の退行に抗う』を読んで、個人も思想を持つ必要性について考える。

お題「#おうち時間

 

ほんのよこみちです。

おうち時間の増える今日この頃ですが、増えるからこそ、できることもありますよね。

例えば、これを機に、積読本を読みまくるぞ! とか^^;

 

ということで、『武器になる思想 知の退行に抗う (光文社新書)』を読みました。

 

武器になる思想 知の退行に抗う (光文社新書)

武器になる思想 知の退行に抗う (光文社新書)

  • 作者:小林正弥
  • 発売日: 2018/11/14
  • メディア: 新書
 

 

たまたま立ち寄った本屋さんで見て、衝動買いしたんですよね~。

買ったものの、読みこなせるかどうか不安になって、積んでしまったパターンやな。

ハイ、読み始めたものの難しくて、読み進められなかった本も多々ありますから(~_~;)

なかなか、本との出会いには、タイミングというものがございます。

 

で、私にとっては、今がちょうどよいタイミングでした。

 

 

思想についての入門書

この本は、編集の方が用意された138の質問に対し、著者の小林正弥氏が丁寧に答えていくという、白熱問答集となっております。

というと、なんか子ども向けのペライ本……みたいな印象を持ってしまうんですが、全然違う。

すごく面白く読めた本でした!

 

政治や経済の思想についての本なんですが、問答集というだけあって、素人向けの本です。

大学で思想を全然やっていない私でもわかる、丁寧な本です。

なので、逆に哲学とか学んでいる方には、物足りないと思われます。

立ち位置的には、入門書だと思いますんで、ここから興味のある分野を深めてね~、という感じでしょうか。

 

どの政党も自由民主主義を守る、という点では共通

ネットではウヨクとかサヨクとかいう言葉が飛び交ったりしてますけど、近代社会においては、自由民主主義が共通理念なんだ、ということのようです。

社会主義共産主義の限界も、30年前に露呈してしまいましたし。

今さら専制主義や全体主義を理想とする思想も、ありえないというか、その先に民衆の不幸が待っているってわかっている以上、ありえない。

 

北朝鮮とか、中国とか、特異な国はありますけどね。

でも、世界の思想史的には、自由民主主義を守って、さらに良くしていこうというのが、一般的な方向性のようです。

 

だから、日本の旧社会党社会民主党になったし。

共産党だって、かなり中道左派寄りになってます。これは実感としてすごくある。

昔の共産党は「主張が合わんな~」って思ったけど、どんどん主張が中道に近づいてきてますもん。

 

逆に、昔の自民党中道右派という感じで、私も普通に投票してたんですけどね。

小泉政権でネオ・リベラリズムに振れちゃって、それ以後、どんどん訳がわからんようになってもうた……💧

もはや中道ではない。権威主義への道、まっしぐら。

自由民主主義はどこにいったんだよ~( ̄▽ ̄;)

 

左翼・右翼というのは、時代によって変化する、とこの本にも書かれていますがね。

日本の政界って、ここ25年くらいで、全体的に右寄りにシフトしている気がします。

中道が右によって、左が中道に近づいてる。

それでも自由民主主義という共通理念を、忘れずにいてくれれば、いいんですけどね。

 

我々が生きていて、当たり前に感じている自由民主主義。

それを各党も前提としているからこそ、国民の自由や人権が尊重されるわけですし、共産党の本来の目標だったはずの革命も「遠い未来の目標」に変わったわけで。

極端な、なんでも自己責任のネオ・リベラリズムではなく、個も大事にしつつ、公共の福祉にも配慮しつつ。

そういうバランスの上に国民の幸福を求める国家。

 

各党がそれを追求するなら、政策が似てくるのも仕方なくて。

ま、そこでいかに差を出すかが正念場なんですけどね。

 

でも、我々国民もそこをわかった上で、自分だったらどういうアイディアを出すかって、考えていけばいいのかもなあ……と思いました。

政治を劣化させないためにも。

 

政治を劣化させないために、我々ができること

結局、日本人が、思想や哲学を軽視してきたツケかなあと思うんですが。

人文学不要論みたいなのも、出ましたよね。

科学技術と違い、人々の生活に直接貢献しない無駄な学問、というような扱われ方を。

 

でも。

すぐに役立つモノって、すぐに役立たなくなるモノなんですよね。

これは、ビジネスで成功した多くの方が言われてますが。

 

哲学書を読んだって、それがすぐに給料に反映するわけじゃないし、人文系の学者の中には過激思想の人もいますけどね。

人文学をやる人間は、変人が多いとか、そりゃ昔から言われてましたけどね。

 

でも。

国家とは何なのか。

我々が幸せに生きるとは、どういうことなのか。

ひとりひとりが考えてみても、いいんじゃないかと思うんですよ。

 

誰が政治をやっても同じって思っている人、私の周りにもたくさんいます。

でも、同じじゃない。

少なくとも、当の政権与党がそう思っているからこそ、一律10万円案が浮上したわけで。

次の選挙で勝てないかもしれない、と思うからこそ、国民目線の政策が出てくるわけで。

諦めたら、税金を払ってくれる財布……で終わってしまいます、我々が。

 

だから、面倒でも、どうすればこの国が良くなるかって、威勢のいい言葉にただついていったらどうなるかって、考えた方がいいと思います。

国民が考えることで、ふがいない国会議員にもっと考えさせる。

理念のふわっとした連中を、鍛え直すぐらいのレベルじゃないと、このコロナ後の世界で日本は生きていけないんじゃないかと危惧しています。

世界からの信用を、大いに失っていますからね。

 

我々は、政府が政権運営しやすくするために、存在している素材ではありません。

過去の先人たちが掴み取った、自由と人権とは何なのか。

まだ、今、我々の手の中にあるうちに、考えた方がいいんだと思います。

 

自粛でただ我慢するだけじゃなくて、理不尽なことは理不尽と言った方がいいし。

国家は、国民の生命と財産を守るためにある、と言っていいし。

ひとりでも多くの方が、死なずに済むように。

考えることを諦めちゃいかんなと、この本を読んで強く思いました。

 

本音は、私よりもっと頭のいい人が考えてくれたら、ラクできるんだけどなあ、なんですけど^^;

よろしくお願いします。m(_ _)m

 

武器になる思想 知の退行に抗う (光文社新書)

武器になる思想 知の退行に抗う (光文社新書)

  • 作者:小林正弥
  • 発売日: 2018/11/14
  • メディア: 新書
 

 

『東大生の本の「使い方」』を、凡人として開き直って読んでみる。

 ほんのよこみちです。

前回、勉強できる子、についての本を読んで、東大生というキーワードが結構出てきたので、我が家にある東大生本を引っ張り出してきました。

 

 

この本は、出てわりとすぐに買って読み始めたんですが、読むうちに落ち込むことが多くて、途中で挫折していました。

ええ、東大生と自分を比べても仕方ないんですけどね。

同じ人として、この違いはなんやねん!(#^ω^)と。

 

東大生は、ホントに向上心で本を読んでいる。

この本は、東京大学生協の元書店員さんが、東大生はどういうふうに本を買っていくのかを、まとめられた本です。

 

まず、東大生って、ホントに向上心がすごいんですね。

ただでさえ頭のいい人たちなのに、さらに思考力や教養を高めて、世界で活躍しようとしている!

このあたりで、もう、凡人との違いを見せつけられるわけですよ。

 

振り返ると、私の読書って、昔も今も、興味の向いた本のつまみ食いでしかないよなあ~( ̄▽ ̄;)

世界で活躍? そんなの、別世界の話だと思ってたよ!

地方で生まれ育つと、小さな世間だけで一生を終わるように、教育されかねないですからね。

うん、すごく悔しいです。自分の生き方が。

 

www.honno-yokomichi.com

 

 

この本には、そんな東大生が、どんな目的で、どのように読書をしているのか、が書かれています。

また、目的別に、どんな本が読まれているか、というランキングもあり、これがなかなか役立ちそうです。

 

東大生ってどんな本を読んでるんだろう……って、やっぱり気になりますよね。

メジャーな本から東大生ならではの本まで、いろんな本が紹介されていて、わくわくします。

もちろん中には、私も過去に読んで、ブログで紹介させていただいだ本もあります。

 

www.honno-yokomichi.com

 

反面、読もうと思って買ったものの、挫折した本もいくつかあり……(^_^;)

誰でも知ってるようなあの本とか、この本とか……(自主規制💧)

 

1年半前の本なので、ちょっと集計が古くはありますが、参考になります。

ハイ、うちの積読タワーが「だから読めっていってんだろ!」と、威嚇してきてます(^▽^;)

そうですね、挫折しないで読んでりゃ、違う景色が見えてたかもしれませんね。

あ~あ(>_<)

 

東大出身者の方々が語る「本の使い方」は、意外と普通だった。

この本の後半では、実際に東大出身の方々がどんなふうに本を読んでいるのか、その体験談が記載されています。

養老孟司さんとか、藤原和博さんとか、私でも著作を読んだことがある著名人の方の頁もあります。

 

学生ではない、社会の第一線で活躍されている方々の、読書法。

でも、読んでみると、意外と普通な感じなんですよね。

そもそも、他でも読書について語られる機会のあるような方々だから、かもしれませんが。

 

特に印象に残ったのが、弁護士の山口真由さんの言葉。

あまり前向きにならなくても、もっと逃避に近くてもいい、と。

 

がんがん前向きな印象のあるこの本の中で、ちょっとほっとします。

私の読書が、逃避に近いからかもしれません。

ええ、以前、人様に言われたことがありますからねえ、役に立たない読書をしている、と。

すっごく落ち込みましたけど^^;

 

でも。

一見逃避であっても、それはそのときの本人には必要なことだし、その逃避行動をどう活かすかは、本人次第だし。

自分次第であれば、どんどんプラスの方向に活かすことも、可能なわけですからね。

別に、教訓を得なければ……とかじゃなくても、自分が本当に楽しいと思うことに気づいたり。

世の中の見方が変わる……というのも、十分、読書体験を活かしているわけですし。

希望が持てます。

 

東大生の本の使い方を、自分の読書にどう活かすか。

ということで、この本の読書体験を、自分なりにどう活かすか、まとめてみました。

 

  1. 自分が尊敬する人のおすすめ本は、読んでみる。
  2. 興味が向いた本を、読んでみる。

 

結局、この二つしかないのかなあ、と。

さらに言えば、東大出身者の方々が言っておられますが、メモを取りながら読む。

感じたこと、考えたことをメモしたり、そこから一歩踏み込んで考えたりすることも、読書体験を深めてくれるのではないでしょうか。

 

なあんだ、普通のことではないか。

基本こそ最強、というやつですかね。

 

一周回って来てしまったようですけど、この本で得られたことの最たるものは、東大生の向上心ってすごい! だったりするので、まあいっか。

何だよ、精神論かよ……なんですが、ただただ自分自身を向上させるために読書するって、時には心折れるんじゃないかと思うんですよ。

この読書に意味ある? なんて泥沼にはまってしまったりしたら。

 

「そんな本読んで、何になるの?」って、聞いてくる人、いませんか? ときどき。

軽い読み物とかでない場合、特に。

私の世代(50代)だと特に、「今さら勉強してもねえ」ってのはよく耳にします。

さらに言えば、「その読書記事をブログに書いて、なんかいいことあるの?」って。

 

読みたいから読んでるし、書きたいから書いてるだけじゃ!

読むこと、書くこと自体が、幸福なんじゃ!!

 

……すみません、感情駄々洩れしました。

 

まあ、単なる自己満足に過ぎないんですけどね。

読書して、新しい自分になっていくって、わくわくするじゃないですか。

別に、すぐに仕事に反映したり、収入アップにつながったりしなくても、人生における幸福って、それだけじゃないですからね。

 

どれだけ「楽しい」と思える瞬間を重ねられるか、それが勝負です。

 

今、こんな世の中で、読書をする方も多いと思いますが。

読書しつつも不安で、こんなんでいいのかなと、落ち込んだりすることもあると思います。

でも、その読書体験が、絶対に活きる未来が来ると、私は思ってます。

人生に無駄なことは、一切ない。

 

今日が、明日が、さらなる飛躍のための幸福な一日でありますように。

ありがとうございました。m(_ _)m

勉強ができる子とはどういうものか、何を背負わなければならないのか、考えてみた。

ほんのよこみちです。

小説を読んで記事にまとめる行為がしんどくなったので、手軽に読めそうな本を、積読タワーから手に取りました。

 

勉強できる子 卑屈化社会

勉強できる子 卑屈化社会

 

 

まずお断りしておきますが、私は決して勉強できる子ではありませんでしたし、うちの子たちもそうです。

うちの子が勉強で困っているからこそ、逆の立場の子はどうなんだろうと、まあ下世話な好奇心からですね。

 

勉強できる子の現状

この本を読むと、いかにステレオタイプの「勉強できる子」が嫌味な人物として描かれているか、よくわかります。

不良っぽい子が実はいい子で、秀才タイプはいつも悪役。

そんな刷り込みゆえにか、「勉強だけできてもダメ」と、勉強できる子の数少ない長所を、これでもかこれでもかと叩きまくる社会・日本。

 

子ども社会の中での反発もすごくて、未就学児の段階から、勉強できる子たちは周囲に気をつかっているんですね~。

他の子から、嫌われないように。

「あの子なんかむかつく」って言われないように。

小学校高学年くらいからは、「上から目線」って言われないように。

涙ぐましい努力です。

 

というふうに読みながらも、なんかひっかかる部分をおぼえていました。

勉強できる子っていうのは、努力の末にできるようになったわけじゃなく、生まれつき勉強する才能があった子たちですよね。

たまたま才能を持って生まれて、小さな時から好奇心を発揮して、学習意欲を満たしつつ、周りに気をつかいながらも中学高校は進学校に進んで、東大などの名門大学に進学して。

それって、すごく恵まれたことじゃないですか?

 

地方の教育事情(ほんのよこみち家の場合)

私事で恐縮なのですが、私の実親は、地方の親にありがちな「あまり教育を重視しない親」でした。

勉強を頑張って、東京の大学などを目指すより、地元の国立大を目指すべきだ、というような。

将来、東京や世界で働きたいという希望を持つより、地元企業に就職して、親と同居しながら家庭を持ってほしい、というような。

 

うちの親はさらに一歩踏み込んで、「勉強は学校ですればいい、塾に行く必要はない」という方針でした。

通信教材にも、お金を出してもらえませんでした。

うちの親からしてみたら、学校が子どもに教えてくれることは、四則計算と、親孝行すべしという道徳だけでよかったんですよ。

理論とか人権とか自由なんてのは、うちの子には不要だと言って憚らない人たちでしたから。

 

なので、勉強してもいいっていう環境は、すごく恵まれたものじゃないかと思うんです。

うちみたいに極端な例じゃなくても、「大学は県内」に限定される友人は多かったですし。

中には「県内の国公立のみ」なんて鬼のような限定のされ方をする友人もいました。

頭のいい子だったので、県内の国立大に合格しましたが、それでも志望学部を「絶対合格圏内」の学部に変更しましたからね。

何のための研究?

 

違和感の正体

勉強できる子って、勉強だけできてもダメって貶められるとか、スポーツできる子は無条件に称賛されるのにとか、言い分はあろうかと思います。

もちろん、勉強ができる子も、スポーツが得意な子も、絵や歌がうまい子も、お洒落な子、かわいい子も、みんなそれぞれ「いいね!」でいいじゃん、という意見には賛同します。

 

ただやっぱり、勉強できて、東大に入れた人は、有利だと思うんですよ。

勉強できる才能と、勉強をさせてもらえる環境に恵まれて。

日本が狭けりゃ、世界に出ればいい、と思えるような人生に恵まれて。

勉強できない子は、うちの子なんかもそうですけど、自己肯定感が低くて、自分には未来なんてないって思っているくらいですから。

こんな勉強できない自分に、幸せになる資格はない、と。

 

どんなにあれこれ言われても、成績という数字は嘘をつきません。

学歴社会である以上、勉強できる子が手に入れられる世界を、できない子は手に入れられないんです。

それも、才能という、努力だけではどうしても補いきれない部分によるもので。

さらに、恵まれた環境があって。

ごめんなさい。やっぱりずるいって思っちゃいますよね。

 

勉強できる人に目指してほしいもの

勉強できる人というのは、できない人とは違う世界が見えているんだと思います。

知能的に。

だから、本当に申し訳ないんですけど、もっと高みを目指してほしいと思います。

 

もちろん、勉強できるけど発達障害という方もいらして、そういう方は本当に大変だと思います。

なまじ勉強できる分、そのギャップに周りが引いてしまうというか。

多分、ステレオタイプな「勉強できるけど嫌なヤツ」って、発達障害の人の障害を周囲が理解できないゆえに起こった、不幸なアクシデントだと思うんですね。

自分ではそんなつもり全然ないのに、周囲とうまくいかないとか。

 

なんですけどね。

頭のいい人が見えている世界って、わからない人には見えないんですよ。

知能の高低の壁は、いかんともしがたくて。

これはもう、わかる人に動いていただくしかないんです。

 

高みを目指してください。

素晴らしい人になって、素晴らしいお仕事をしてください。

人として、隣人を愛してください。

私利私欲にまみれた、ちっぽけな人間なんかにならないでください。

お願いします。

 

感謝

今、自分が持っているモノって、自分の努力だけで掴んだものじゃないと、私は思います。

運も多分に左右してる。

生まれた場所、親、時代。

たまたま学校で出会った人たち。

才能。

努力だけではどうにもならないものを、運が見方してくれて、今の自分を形づくってくれているんだと思います。

 

だから、感謝しかないんですよ。

運をはこんできてくれる、この世のすべてに。

 

不遇な環境であっても、その結果の自分ですから。

そりゃもっと幸運な環境であった方が絶対いいと思いますけど、そこにいるのは今の自分じゃないんで。

もっと不運だったら、今、生きていないかもしれないんで。

何かを感じる「自分」という存在は、唯一無二の宝物なんで。

 

なので、私のような特に勉強ができたわけでもない人間も、もっと高みを目指そうと思います。

素晴らしい仕事は、年齢的にもうできないかもしれないけれど、人の良さを肯定できる人間でありたい。

私利私欲を全廃することは難しいけど、なるべく人のためにお金を使いたい。

物理的な隣人ばかりでなく、ネットの隣人も愛す。

(でも、攻撃的な人には10倍返ししちゃうけど)

 

私もそんなに動ける側ではありませんが、仕方ないんですよね。

例えば、発達障害の子を見ていると。

動ける側が、フォローに入るしかないんですよ。

弱者を攻撃したくなる人、いるみたいですけど、人間っていつまでも元気じゃいられませんからね。

いつ病に斃れるかもしれないし。

みじめで嫌になるでしょうけど。

そのときのためにも、人間力を鍛えておくしかないんですよね。

動くことで、鍛えさせていただく、とでも言いましょうか。

 

勉強できようができまいが、みんな大変だと思います。

特に、今の世界においては。

なので、想像力も鍛えたいですね。

 

今日も明日も幸運がありますように。

ありがとうございました。m(_ _)m

十二国記『東の海神 西の滄海』を読んで考える、尚隆はなぜ理想の上司と言われるのか。

ほんのよこみちです。

実は地味に十二国記の再読もやっています。

で、シリーズ3作品目が『東の海神(わだつみ) 西の滄海 十二国記 3 (新潮文庫)

 

 皆の大好きな兄貴、延王・尚隆と延麒・六太のお話ですね。

尚隆は、理想の上司と言われているらしく、確かにまあ、そう思って読むと納得できるんですわ。

なので、尚隆人気を考えながら、理想の上司とは何か、なぜ尚隆がそうもてはやされるのかを、考えたいと思います。

 

自由奔放で市中をお忍びで出歩く殿様が、日本人は好き

『東の海神 西の滄海』を再読してまず思ったのは、「時代劇の構成だなあ」ということですね。

暴れん坊将軍』とか、『長七郎江戸日記』とか。

  

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  • 発売日: 2006/10/21
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長七郎江戸日記 DVD-BOX (7枚組)

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  • 発売日: 2007/12/07
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殿様が、お城から勝手に飛び出して、市中の呑み屋とか賭博場とかに出入りして、町民たちの不満を聞いたり、老中などの腐敗を掴むきっかけとなる事件に遭遇したりするの。

好きですよねえ、こういうの。

実際に、そういう殿様がなかなかいないからこそ、憧れるんですよ。

大抵の権力者は、自分たちの城に籠ってしまって、側近がささやく耳に心地のいい言葉にすがって、道を踏み外しますからね。

誰とは申しませんけど。

 

尚隆は、あまり朝議に出て来ない不良王のように臣下から言われますが、その分、王城にいたのでは知れないようなことを知っていたりする王です。

本文中にはないですが、多分、徳田新之助(『暴れん坊将軍』における吉宗の偽名)に近い感じで、出歩いてるんではなかろうかと。

だから、奸臣に騙されない。

情報収集能力は、本当に大事です!

 

王など民にとってはなくてもいい存在であることを、自覚している

尚隆の名君であるゆえんは、ここですよね。

権力者など国民にとって必要不可欠ではないということを、権力者として自覚していること。

国民あっての国だし、民にとっては、その国ですら、なくても構わないということです。

 

国体あっての国……なんて言っちゃう、どこぞの国とはえらい違いです。

その国体って何ぞや? となっても、はっきりしないくせに、国体のために国民を平気で犠牲にする国。

あ、国民体育大会が一番大事って意味じゃないですよ? って、どんだけ脳筋やねん。

 

国体論 菊と星条旗 (集英社新書)

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つまり、尚隆は自分が王であっても公僕だと認識している、ということですね。

自分が民の平和と安寧につながる事業をやっているからこそ、王として存在していられるということを。

 

十二国記の世界では、民を虐げれば、王も死が待っているだけですから、理性的であろうとするのは当然かもしれませんが。

でも、やりかたがわからなくて、失道しちゃう王も多いからなあ。

自分の行いが正解か否か、を考え始めると、誰でも不安になりますしね。

 

結局、王とは、権力者とは、役割としての責任が前面に出るもの、ということを、理解しているかどうかなんですね。

言い訳のできない、結果がすべての立場であることをわかって、覚悟を決めているかどうか。

そこらへんが、できていない権力者が目につくから、尚隆が理想的に見えてしまうんでしょうね。

 

部下の諫言を聞き入れる器の大きさと、ユーモア感

『東の海神 西の滄海』は、尚隆が登極してから20年後の物語です。

一般に、即位後20年っていうと、相当の年月が経ったように感じますが、年を取らない十二国記の王や官僚たちですからね~。

皆、若い。

若いけど、信頼できる部下も出てきている、そんな発達段階の国家……とでもいうんでしょうか。

 

そんな雁国で、尚隆の側近となっている部下たちというのが、どいつもこいつも諫言を吐きまくった連中という……。

しかも、その諫言の中には「そんなこと言われても冤罪だよなぁ」というのも含まれてたりするんですがね。

それでも腹を立てず、それだけの諫言ができる器量を認め、側近としてしまう器の大きさよ。

共に国を立て直す仲間として、重用しているんですね。

 

そういう側近に対して「猪突」「無謀」「酔狂」などど、別字をつけてしまう尚隆。

人を喰ってるというか、愛嬌あるユーモアというか。

ちゃんと部下に反論の余地を残しているあたりが、人心掌握の妙というか。

偉ぶらない王様。

単に側近だけを特別扱いしているわけではなく、ホントは有能な者はどんどん登用するんだよって、言ってるようなもんなんですよね。

 

側近を称賛するような別字をつけてたら、なんとなく特権階級的な色が強くなって、その輪に入りたい奸臣がおべっかを使うようになると思うんです。

お友だち優遇政治みたいに。

結果、私服を肥やす連中がはびこって、能吏が追い出されてしまう。

それでは国は立ち行かなくなりますから。

 

諫言を受け入れつつも、その度胸に対してツッコミを入れる。

ツッコミにはツッコミで返す余裕を持たせておく。

その器の大きさが、求められるところですね。

 

でも、理想の上司はなかなかいないから、皆が王になればいい

以上のように、皆の求める理想の上司像を考えてきましたが、まあ現実にはそんな人、滅多にいませんしね。

ま、政治家はいないからって諦めるわけにはいかないので、次の選挙で無能者は落とすしかないんですが。

選挙で決められない身近な上役は、もう運一つなので。

 

だから、皆が王になったつもりで考え、行動していけばいいのかなと思います。

 

自らが、親として、先輩として、上司として。

王だったらどうするかを、考えて行動する。

 

自分の家庭を国家として考えたら、どうするか。

自分のいる部署を国家と考えたら、王として何ができるか。

抵抗勢力とバランスを取りながら、どう動くか。

自分自身を、一国と考えたら、その国の産業をどうしていくか。

 

自分自身を国と考えた場合、外に働きに出るのって、出稼ぎになるのかなあってちょっと思ってしまって、これは衝撃でしたね。

ああ、会社勤めって、出稼ぎなんだ。

COVID-19(新型コロナウイルス)で、外出自粛の時代でなかったら、思いもよらなかったかもしれない。

自分自身で産業をつくると言えば起業ですが、サービス業はどこも大変です。

個人事業主の方たちって、本当に「王」なんですね。

 

だから、現状「王」ではないとしても、他国に積極的に学ぶ尚隆の姿勢は、学びたいと思いました。

「指摘されたら、ぼんくらだから猿真似しか能がないと言ってやろう」

なんて、かっこよすぎじゃないですか。

「要は国が富めばいいのだ」 

有能な人間は、もっともっと有能になってゆくのです。

 

私は尚隆とは比べものにならないくらいぼんくらですから、猿真似だって難しいことを自覚しています。

でも、やってみないことには、何も始まりませんよね。

少なくとも、奴隷でいるより、王でいた方が人生の充足感は味わえると思うので。

一度しかない人生ですから。

 

ということで、理想の上司とは

以上のことから、理想の上司とは、

  1. 百聞は一見にしかずで行動する。
  2. 自分は部下の稼ぎの上がりを得ていると自覚する。
  3. 耳に痛い言葉を受け止める。
  4. 偉ぶらない。
  5. 部下の環境をよくするために、常に他者から学ぶ。

ということでしょうか。

 

なるほどと思うことばかりですが、その場になると、結構うまくできなかったりしますね。

でも、はなから諦めてやらないよりマシなので。

 

踏ん張っていきましょう。

ありがとうございました。m(_ _)m

 

『知りたくなる韓国』を読了して考えた、華々しい物語に依存しない、泥臭さを受け入れる強さについて。

 ほんのよこみちです。

読み始めたら止まらなくなった、『知りたくなる韓国』を読了しました。

(……という記事を書き始めてから、一週間経っているんですけどね( ̄▽ ̄;))

 

知りたくなる韓国

知りたくなる韓国

 

 

他国からの支配を受け続けてきた歴史

韓国の歴史を読んだときに、まず感じるのが、中国からの圧力のすさまじさです。

我々には日本海があってよかった、って、心から思います。

大陸と地続きだったら、日本も中国に対して、朝貢外交をし続けなければならなかったでしょうから。

2000年前から、終戦まで。

 

韓国に比べて、日本がいかに自由だったか。

日本海のおかげで、当たり前のように独立国としていられた幸運。

そして今のところ、保身のために国家を売り渡そうとする権力者が出ていないこと。

実質的なアメリカの属国とか、そういうのではなく、名目的に裏切られたわけですからね。かの国は。

他国の国家元首でかつ故人を悪く言うのもどうかと思いますが、高宗さんって、軽率すぎる。

ま、併合した側の人間が言うのも、どうよ……なんですが。

 

で、日本統治時代があって、終戦とともに独立できると思ったら、米ソによる分割統治。

当時の国際状況ゆえ、強者に従わざるを得ないとはいえ、ね。

ちょっとあんまりではないか、と。

日本人のお前が言うなよ、なんですが。

 

日韓関係は悪化したまんまだし、嫌韓を煽るような意見もありますけどね。

他国にずっと服従を強いられ続けてきた、そういう国の人たちの心理を想像して、建設的な外交をしていくことが、大人の対応ではないかと思います。

相手の主張を鵜呑みにするんじゃなく、でもこちらの主張だけを闇雲にするんじゃなく。

互いの利益へ誘導するような。

 

だから、歴史を学ぶことは重要なんです。

 

やっぱり韓国民に対する賠償金のはずのお金が、インフラ整備に消えてる

朴正煕政権の時代の話ですね。

本来、徴用工問題に対する賠償金も、日本は朴正煕政権に払っていたんですね。

でも、それを個人補償に当てないで、インフラ整備に使ってしまった。

ということを真正面から言うと、韓国の体面を傷つけてしまうということでしょうか。

日本だって、戦時中のあれこれを言われると、嫌な気持ちになったりしますから。

 

確かに軍事政権の独裁時代ですし、インフラが整ったことで、その後の奇跡ともいわれる経済発展につながっているわけですし。

ただ、恩恵を受けられる人とそうでない人がいて……という過酷な現実には、厳しいものがあると思いますが。

 

王道だけでは済まないのが外交ですが、王道の方が、他国からの賛同を得やすくなります。

我々も、国家が王道を進んでいるか、覇道に入っていないか、ちゃんと監視し続けなければなりません。

それが、小国の生きる道でもありますから。

 

韓国の人の名前は、フルネームで呼ぶのが基本だそうです

これ、知らなかったです。

普通に苗字だけで「朴さん」とか「金さん」とか読んでました^^;

それが、ホントは失礼なことだったなんて!

だって、漢字表記名は知ってても、読み方がわからなけりゃ、日本語読みだともっと失礼じゃん!

 

まあ、在日の方なら、なんとなく察して下さるだろうなあ~……という甘えにすがっているのも情けないので。

次に韓国・朝鮮系の方にお会いするときに、お話のきっかけにしていければなぁと思います。

——いつになるかわかりませんけどね。

今は、我慢我慢。

 

こんな時だからこそ、できる学び、後悔しないことをしよう

この本をを読んでいると、韓国の競争社会のすごさに「日本人でよかった」などと思ってしまいますが。

でも、教養が深くて語学力もある隣人が、どんどん日本に就職しに来たら、あっという間に仕事を奪われてしまいますわな。

どんどん自分をバージョンアップさせていかないと。

 

韓国人に比べると、我々は確かに恵まれている部分もあるかもしれません。

学歴社会っつっても、韓国ほどじゃないし。

大卒の就職率も、今のところ5割以上あるし。

今回のCOVID-19(新型コロナウイルス)の影響が、どこまで来るかわかりませんけど。

 

だからこそ、今できることをやった方がいいのかなと思います。

興味あることを学んで、自分の武器をつくる。

スクールに行きづらいですから、オンラインとか独学とかで。

 

とはいえ、気分的に落ち込んでしまうし、いつまでこの状況が続くのかわからないし。

自分もいつ、感染してしまうかわからないし、重症化してしまうかもしれないし。

とても、将来を見据えた勉強なんて、する気分になれないかもしれない。

 

そうしたら、やっぱり、気分が少しでも上がるような、やりたいことをやった方がいいですよね。

多分それが、自分が一番やりたいことだと思うので。

 

こんな状況で、たとえばやりたいことを仕事にしていたのに、うまく回らなくなってしまって、気分が上がらないかもしれません。

それでもこの試練を乗り越えたら、その好きなことを、もっとうまくできるようになっているかもしれない。

なので、やっぱりやりたいことの学びをやった方が、いいのかなと。

 

韓国の人みたいに何か国語も喋れたり、ITスキルもあって、基礎教養も高くて、さらに美形……なんてのを目標にしてしまうと、ちょっと心折れますからね。

あれもこれもハイレベルを目指さなくても、自分が好きなことで深めていければ。

一朝一夕に、あれもこれも身につけることなんてできないのですから。

 

それにやっぱり、もし新型コロナ感染で死んでしまうのなら、やりたいことをやっておかないとねえ。

死ぬ瞬間に後悔したくないっしょ?

もちろん、他人様の生命を脅かさない範囲でのやりたいことなので、インドアなことに限定されてしまうんですけど。

でも、こんなときだからこその発想力って、人を魅力的に成長させてくれると思うんですよね。

 

国や民族としての、華々しい物語性に依存しない、泥臭さを受け入れる強さを持ちたい!

この『知りたくなる韓国』を読んで強く感じたのが、「人は国に、華々しい物語歴史を期待してしまう生きものなんだ」ということです。

どこの国にも、ファンタジーのような神話物語があり、自国の歴史を、華々しいものであろうと、都合よく解釈していく。

韓国と日本との歴史認識齟齬は、そういう人の弱さも絡みついているんだと思います。

お互いに。

 

韓国は、朝鮮という旧国名ですら、中国の王族が支配した国名という歴史的背景を持ち、常に中国の属国に甘んじて来ざるを得ませんでした。

生き延びるために文治政治を取り、生き延びるために現実的な路線を取り、故に、独立戦争ではなく穏健な方向性を取る結果となってしまった。

だからその歴史は、物語としての面白みに欠けるものだったかもしれない。

それは、屈辱の記憶でしかないかもしれない。

しかし、華々しい物語というのは、時に人の心を惑わす麻薬になりうる……。

 

人間は、物語が好きだ。

物語が好きだからこそ、祖先の歴史が英雄譚であれば嬉しいし、ツッコミどころ満載の創世神話にもつき合っている。

本当の歴史がもっと泥臭く、物語的でないとしても、できれば少しでも華々しくあってくれればいいのになと願い、その願望に応えるかのように、権力者は歴史を加工してきた。

その加工は、時の権力者の自己正当化にも役立ってきた。

だから、国家間での争いの火種にもなる。

 

今のこのCOVID-19(新型コロナウイルス)の惨禍も、物語であってくれればいいと、正直思います。

物語であれば、必ず新薬が開発されて、危機的状況の人の多くが救われて、自分は生き残れるだろうと思えるから。

でも、我々は傍観者ではなく当事者なのです。

楽観的希望的予測物語を信じて、対応が後手後手に回っている国の市民なのです。

 

物語ではない、現実的な泥臭さを受け入れる強さが必要なのではありませんかね?

 

うちの国にも良さはありますが、とんでもないこともアホなこともいっぱいやらかしてきたし、現在進行形でも未来形でも、そうなのかもしれません。

人間ですから、間違えることもあります。

ただ、間違いを認め、それをどう挽回するか。

みっともなくても、汚泥の中を這うような作業であっても。

そういうことに向き合う人を、もっと称賛できるようになれば、いいんですけどね。

 

私も物語が好きなので、物語性と距離を取る思考は、なかなかしんどいです。

間違いを挽回する……ということも、物語の一つではありますから。

かっこよく成長するのが、当たり前……という幻想ですね。

 

だから、歴史を学んだり研究したりすることは、必要なんだと思います。

人間が、平和で安心して生きていくために。

私が歴史好きなので、余計にそう思うのかもしれませんが。

 

科学技術の重要性とともに、人文学も粗末に扱っていいものじゃないんですよ。

ただ、時の権力者にとっては、人文学は諸刃の剣なので、冷遇しがちなんですけどね。

ということを再認識した読書経験となりました。

 

ご一読いただき、ありがとうございましたm(_ _)m

 

知りたくなる韓国

知りたくなる韓国

 

 

 

 

 

 

 

外出自粛の週末を、自宅でどう過ごすか? ――これからの生き方も含めて考える。

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ほんのよこみちです。

東京都による外出自粛要請を受けて、この週末をどう過ごすか、これからの生き方も含めて、ちょっと考えてみました。

 

とりあえず、家にこもる。

なんで外出自粛要請が出ているかって、人間がウイルスを運ぶからなんですもんね。

なので、極力、家にこもります。

まあ、朝、ごみ出しには出ましたけどね。燃えるゴミの日なんで。

食料も、週末食べられるくらいは買ったし。

 

本当は出かけたかったけど、COVID-19(新型コロナウイルス)で亡くなる方って、家族に会うことも叶わず亡くなっていくんですもんね。

自分はそんな死に方をしたくないし、他の方にもしてほしくない。できるだけ。

なので、ウイルスの運び屋はやりたくありません。できるだけ。

 

この「できるだけ」というのが曲者で、自分が感染しているかどうか、はっきりわからないですからねえ。

見えない、わからない、そんな敵と戦うって、少年マンガにありそうなシチュエーションですな。

そんでもって、主人公は山にこもったりして、新たな技を磨いたりするのだ。

今の我々の状況と、同じではないかい?

 

そう。

我々は、修行のために、おうちにこもるのです。

ひとりひとりが主人公です。

って考えると、自堕落な週末を過ごすなんて、もったいなくてできませんよね。

さあ、何をしましょうか?

 

学習する。

家でできる修行と言えば、まあ学習ですね。

学校の勉強に限らず、興味のあることとか、これからの人生において必要なこととか。

人生は長いようで短いので、やりたいことの学習は、とにかくやっておいて損はないと思います。

というのは、50年生きてきた上での、私の教訓。

 

私の個人的な興味ですが、今、自分がアジア人だということをすごく感じているので、アジアについてもっと知りたいんですね。

で、今、ちょっと読み始めてしまって、止まらないのがコレ。↙

 

知りたくなる韓国

知りたくなる韓国

 

 すごく、面白いっ!

韓国のこと、知っているようで全然知らなかった自分が、恥ずかしいよ~。

 

歴史もちゃんと学んで、日本側の視点と韓国側の視点と、両方理解して、自分がすべきだと思う態度がとれるようになりたい。

 

そういう微妙な近現代史だけじゃなくて、朝鮮王朝史も普通に面白いし、この本ではあまり取り上げられていない、高麗史も読みたい。

絶対面白そう。

 

過去はどうにもならないけれど、過去から学ぶことはたくさんあるし。

学んだうえで、未来をどうしたいのか、考えたいし。

単純に、過去に生きた見知らぬ誰かに、思いを馳せることで、その人の人生を追体験できるし。

歴史を知るって、文学的な面白さに通じます。

 

歴史だけじゃない、社会とか文化とか、近くて遠い隣国のことをちゃんと知ることで、落としどころを探っていくしかないと思うんです。

そのための主張にしたって、やり方というものがあるわけでね。

韓国の顔を立てつつ、日本の利益を守りつつ、道を探っていく。

もう、日本はアジアの盟主なんかじゃないんだから、変なプライドは置いといて。

 

読むことで、もっともっと知りたくなります。

韓国のほか、台湾も、あとやっぱり巨大な中国のことも、その心髄を理解していかねばなんめいよ~。

この危険で強大なご近所さんからは、絶対に目が離せませんからね。

 

家族と話す。

ひとり暮らしの方も多いと思いますが、まあ幸いなことに、うちは子どもと同居しているので。

COVID-19(新型コロナウイルス)に感染して、症状が出て重篤になってしまったら、もう家族に会えませんからね。

今、この瞬間しかない、ということは、肝に銘じておきたいと思っています。

 

家族に何も言い残すことなく、死んでいくのは寂しいから。

自分だけは大丈夫、なんてのは、根拠のない自信でしかないわけですし。

 

うちはシングル家庭なので、私が死んでしまうと、子どもたちの生活がホント激変するだろうし。

学校を辞めるとか、施設に入るとか(下の子は)、そういう未来もありうるし。

 

だから、特にこれを話す……というのがなくても、まあ、何かを伝えらえれてたらいいかな、と。

 

こんな時だから、掃除をしよう!

もうずっと子どもが家にいるし、私も帰宅したら勉強につき合ってるしで、なんか部屋がごちゃごちゃしていくんですよね。

子どもが卒業した中学の制服も、洗って学校のリサイクルBOXに持っていきたかったけど、そのままになってるし。

 

でも、部屋がごちゃごちゃしていると、頭の中もごちゃごちゃしていくので、掃除します。

 

本棚も整理して、読み終わって棚差しする本と、段ボールに詰める本と、整理したい。

古い本は日焼けしてて、古本屋さんにも出せなかったりするので、でも捨てるのは忍びないし、どうしようかなあ、と。

価値の高い本なら、それでもまだ回せるんですけど、思い出だけある軽い本とか、ね。

今、ちょっと、十二国記が床の上に積まれている状態なので、それを何とかしたいんだよ~(^▽^;)

 

ということで。

さあ、行動です。

国や都の言うことに、無思考に従うわけじゃなくて、今、できることを一つずつ。

やっていきながら、どうしていくか、考えましょう。

 

一度しかない人生で、それが100年あると保証されたわけではなくて。

来月も生きている保証なんてのも、どこにもないわけですから。

 

今日一日を大切に。

今という一瞬を大切に。

丁寧に生きていきたい。

 

今日も明日も、皆さまにとってより良き日となりますように。

ありがとうございました。m(_ _)m

 

画像:Arceさんによる写真ACからの写真

十二国記『風の海 迷宮の岸』を読んで考える、「王と麒麟」というシステムから学ぶことは何か。(ネタバレあり)

ほんのよこみちです。

十二国記を積みあげて、読んでます!

(家事やら子育てやらの合間の読書なので、読みながら、メモしながら、ブログ更新……が、ホントゆるゆると、になってしまうのですが^^;)

 

風の海 迷宮の岸 十二国記 2 (新潮文庫)

風の海 迷宮の岸 十二国記 2 (新潮文庫)

 

 『風の海 迷宮の岸 十二国記 2 (新潮文庫)』は、『魔性の子』の冒頭の、高里要が神隠しにあっていたとされる時期のお話ですね。

 

ということで、以下魔性の子』のネタバレも含めて、この作品のネタバレもいろいろ書きますので、そのおつもりでお願いします。

 

 

我々は他者を【役割を果たすもの】として見てはいないか?

十二国記のお話もエピソード2まで来ると、「王と麒麟」の役割がだいたいわかってきます。

あちらの世界では、麒麟が王を選び、王が道を誤って悪政を敷けば、麒麟が病に斃れ、その後、王も死ぬ。

王がいなければ国が荒廃し、妖魔が現れ、民は過酷な環境で生きざるを得ないので、一日も早く、麒麟に王を選んで欲しがる。

ただ、麒麟は天意に従って王を選ぶしかなく、その天意がなぜあるのかもわからず。

時に、王を選ぶという重責につぶされそうになったりもする。

 

読者として我々は、麒麟=王を選ぶ機関、ととらえそうになります。

当然のこととして、麒麟に生まれた以上、その責務を果たすのは普通ではないか、と。

本作の主人公・泰麒も、こちら側(蓬莱)に生まれ育った高里要くんであっても、麒麟だから、まあ選ぶよね、と。

彼の家庭環境は、確かに怖いおばあちゃんといじめられてるお母さんがいて、お父さんは子育てに無関心で、弟はずる賢くて、とても居心地のいい家庭とは思えない。

だから、泰麒として生きた方が、絶対よくない? と。

 

なんですけどね。

本作を読み進めるうちに、泰麒の本心に我々は触れることになります。

「うちに帰りたい」「お母さんに会いたい」と。

麒麟という役割を押し付けられたのが、まだ10歳の小学生であることを、突き付けられます。

そう感じるほどに、機関としての泰麒として、10歳の子を認識していたわけですね。

 

そんなのお前だけだよ? だったら良いのですが。

結構、これって怖いことだなと思いました。

 

仮に、重大な任務を持っている人(子ども)であったとしても、その役割以前に、その人はひとりの尊重すべき人格を持っていて、いろんな感情や思考を持っていて、それらは役割を果たす果たさないに関係なく、あるべきものとして、尊重されるべきではなかろうか、と。

 

我々が日常的に役割で他者を見るとすれば、学校とか仕事とかですよね。

教師だから、生徒だから、上司だから、部下だから。

社会の中で、役割を持って活動しているわけだから、四の五の言わず、役割を果たすのが当たり前だろう、と。

個人の感情や思惑など、関係なく。

 

それは、とても冷酷な感覚ではないですかね。

10歳の子に、泣き言言わずに国家のために尽くせ、というくらいに。

戦時中ですか? というくらいに。

 

権力者としての覚悟が、この国の人間にあるのか?

国家機関として、それでも麒麟は王を選びます。

選ばれた王は、麒麟とともに天勅を受けます。

天勅とは、この(十二国記の)世の成り立ちから、国家や制度の成り立ち、王としての責務や道について、天帝より言葉を受けることです。

人智を超えた、神のような存在を、王と麒麟が感じるシーンですね。

 

この小説を読んでいて、ちょっといいなあと思ってしまったのは、こういうところなんですよ。

権力の座につくときに、権力者にその自覚を促す強い力があれば、この国の政治は、少しマシになるになるんじゃなかろうか、と。

己の持つ力に対する覚悟というのは、この国の人間の大半が、無自覚なままじゃないかと思うので。

 

もちろん、人間の力の及ばないところにある権力……なんてものにすがるのは、結構情けないことだと思います。

つまりは、賢帝に支配されたい奴隷根性ですからね。

一定の枠の中での自由に甘んじ、支配者から下される安寧に満足するのか。

衆愚政治よりも、そちらの方がいいと言えるのか。

 

この小説が書かれたころって、湾岸戦争のあったころかなと思うんですが。

日本政府が「金は出しても血は流さない」と、多国籍軍から冷笑されてたころですかね。

そういう屈辱を経て、今の自衛隊海外派遣とか、集団的自衛権の行使容認とか、あるわけで。

要するに外圧。

 

日本人って、御上意識が強いなあとは思うんですけど。

主体的に判断ができなくて、言い訳ばっかりですよね。

最善を尽くすとはどういうことか、といった覚悟が足りない。

「仕方ない」で、困難から逃げまくろうとしてる。

 

だから十二国記みたいに、王を麒麟(天帝)が選んで、王が失道したら天帝が駄目だしをしてくれる世界の方がいい、と思いたくなる気持ちを、抑えなきゃいけないんだと思います。

思考停止だから。

自由と人権の放棄だから。

奴隷への階段を転がり落ちるだけだから。

 

民主主義は不完全かもしれません。

だからこそ、ひとりひとりが、自分の持つ力に自覚を持って、王のように自分の行動の道を問いながら生きるというのは、どうでしょうか。

 

人間関係は、上下より水平な関係の方がいい。

本作には、結果として2組の王と麒麟が登場します。

戴の驍宗と高里、雁の尚隆と六太。

泰王と泰麒が上下関係なのに比べ、延王と延麒は水平な関係ですよね。

 

これは、互いの人間性によるところが大きいんですが。

どこまでも萎縮している泰麒と、人としての度量は大きいもののどこか怖い驍宗。

驍宗のなにが怖いって、名前からして、皇帝の諱を連想させるし。

それも武断の王を。(実際、驍宗は禁軍の将軍ですけど)

だから、なんとなくはらはらしてしてしまう。

 

そこに比べると、延王と延麒の関係は、安心して読めます。

口は悪いけど、信頼関係がちゃんとできていて、言いたい放題でもノリツッコミでも、すべてOK。

関係性としては、理想的です。

500年の年月が培ってきたもの……というより、これはもう二人の人柄ではなかろうかと。

まあ、その辺の話は『東の海神(わだつみ) 西の滄海 十二国記 3 (新潮文庫)』に譲るとして。

 

私の個人的な感覚ですけど、敬語を使い合う関係より、ボケツッコミできる関係の方が、魅力的だと思います。

何かあっても、笑いで包める……というか、そこんとこは互いの度量だと思うんですよね。

他者を対等な存在として、受け入れられる度量。

そういう部分は、見習いたいと思います。

 

驍宗の強さを見習いたい。

 こうして記事にしていると、個人的な驍宗の評価がすごく低いようにも読めてしまいますが、決してそうではなくて。

泰麒の苦悩を景麒から聞かされたときの、冷静さを保ちつづけられる強さには、ホント敬意しか表せないですね。

そして、弱さを表面に出すことに慣れていない彼が、発した一言。

それでも自分は王だろうか、と。

 

驍宗は、蓬山にいた頃から、結構良心的で知的なセリフをいろいろ言ってますが。

彼の最大の危機(この本の中での)ともいえる、上記のシーンの対応ぶりが、一番好きですね。

新作『白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)』を、まだ読んでないので、すごく怖いんですが。

痛めつけられるよね、ってわかっているから、怖い。

だから、ゆるゆると読んでいるのかもしれない。

弱いなあ。

 

ということで。

十二国記は、登場人物とともに、読者も成長を促される作品です。

促されても、すぐ忘れちゃうのが人間の弱さですが、でも振り返ってみれば、その読書経験は決して無駄ではない。

そう思えるからこそ、ファンの多い、長く愛され続けている作品なんだと思います。

 

本作で、泰麒が一番気づいたことは、自分の選択は誤りではない、ということ。

この不安定で危機的な時代に、それは一つの旗になるのかもしれないと思いました。

 

誰だって、自分が正解の道を歩いているかどうかなんて、わからない。

天意が示してくれるわけなんてない。

でも、選んじゃった以上、それが誤りでないことを、自分で証明していかなきゃならないんですよね。

結果的に。

最終的に。

たとえ、表面的に誤りかもしれない状況に陥ったとしても、そこで得られたものを糧にして、次の道がある、というくらいに。

 

覚悟という単語こそ、十二国記にふさわしい単語かもしれません。

我々以上に、王も麒麟も、失敗の許されない道を歩んでいるわけですからね。

 

そういう意気込みを、この作品を読むと思い知らされます。

へこたれないで、生きてゆきましょう。

 

ありがとうございました。m(_ _)m

適応指導教室の修了式と、所属中学校の卒業式(不登校生の部)に、保護者として参加して感じたこと。

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ほんのよこみちです。

3/18、3/19、卒業式(修了式)に保護者として参加してきました。

何で2日続けて? って、所属中学の卒業式に参加できるよう、適応指導教室の修了式をずらしているんですね。

なので、子どもが両方に出席するなら、親も両日、有休を取らなあかんのですよ(^_^;)

 

適応指導教室の修了式は、アットホームな小さな学校の卒業式でした。

適応指導教室は、地域の不登校生が集まってくる教室です。

うちの子の通っていた教室は、小学4年生から中学3年まで、総勢70人超が在籍していました。(2019年度)

 

修了式は小学6年生と中学3年生合わせての合同式なのですが、参加修了生は15人以上で、小さな山村小中学校の卒業式という感じ。

式場も、教室二つ分くらいのホールを使って、音楽も流して、来賓も来て、ザ・卒業式という方向性を感じました。

(それが苦手に感じる子もいるようなのですが、さあどうなりますかね、来年は)

 

ただ、式自体はアットホームな感じで、良かったと思います。

修了生全員が、前に立ってスピーチするんですが、いわゆる「学校スピーチ」的なのをきれいにまとめてやる子もいれば、独自性を貫く子もいます。

でも、それらすべてが、その子らしくていい。

そういう空気感が、適応指導教室をアットホームな場にしているんだなと思いました。

 

式には参加しませんでしたが、卒業生が式場の外に来てくれたりして。

修了式が終わった後、みんな名残惜しくて、久しぶりに会った高校生たちと話すのも楽しくて、普段の日みたいにUNOしたりしてましたね~。

マスクして。

 

今回はコロナ騒ぎで、在校生がほとんど来ていなかったのですが。

でも、僅かに来てくれた在校生との距離も、ホント近くて。

うちの子にとっては、母校ですね。

 

所属中学校の卒業式(不登校生の部)は、とてもこじんまりとした式でした。

そして翌日、中学校の卒業式(不登校生の部)に参加してきました。

午前中、普通の卒業式をやって、午後が不登校生の部。

学校に行くと、担任の先生が迎えてくれて、親は小教室(式場)で待ち、子どもは別室へ。

 

式場にはお花が飾られていたり、校旗が立てかけてあったりしたんですが、全体的に、こじんまりしているなあという感じでした。

保護者の数も、うちを入れて五組で。

なんですけど、入場してきた生徒は、うちの子とあともう一人のみ。

やっぱり来れなくなったお子さんがいた、ということだったんですね。

卒業証書も、保護者の方が代理で受け取ってらっしゃいました。

 

こちらの卒業式は、先生との距離が近い式だなと感じました。

例えば校長先生が、出席している二人の生徒の目を見て、話をして下さる。

「困難にぶつかっても絶対あきらめるな」って、多分、午前中の子たちよりも必要な言葉だと思ってらしてるのかな、と。

生徒本人のスピーチもありましたけど、保護者も立って挨拶をする時間が設けられている。

担任の先生が、それぞれの生徒に向けて、話をする。

 

3年間担任をして下さった先生には、とにかくお礼を言いたかったので、他の保護者の方が学校に対する感謝を述べられている中、私はとことん「〇〇先生、ありがとうございました!」でしめちゃってました(^▽^;)

若い先生だったのに、こんなめんどくさい保護者にあたって、本当にごめんなさいって感じで(>_<)

 

小教室にわりと人口密度高めな式だったので、先生方はあんまりこういうのに慣れてないのかなと思いましたが。

でも、上の子の時にはなかったですからね、こういう式は。

時代が変わったというか。

一つの枠におさまらない子はダメ……みたいな不文律は、もう古いよってなってほしいんですけどね。

 

スピーチの上手下手には人間性が出るぞ!

今回、2日連続で式に出席し、いろんな方のスピーチを聞く機会に恵まれました。

式典のスピーチって、大抵長くてつまらなくて苦痛……という印象ありませんか?

でも、実はそこにも上手下手ってあったんです。

 

上手いスピーチをされる方のお話は、聞いてて苦痛じゃないし、思わずメモを取りたくなるし。(そして手帳を出してメモった)

あまりうまくはないけど、それでも一生懸命話している方のお話は、そこまで苦痛じゃない。

 

反対に、駄目だこりゃって思ったのは、書いてきたスピーチ原稿を読み上げる人。

あなたの作文発表会になってますよ、ってツッコみたくなりましたね。

あと、感謝を強要するスピーチも、生徒の心情に立ち入りすぎだよなあ……と思うし。

 

感謝しろ、なんて言ってる相手に、人間は感謝しませんよね。

感謝したくなるような人柄の相手には、自然と頭が下がるものです。

強要する側が、まずそこを行動で示さないと。

感謝されるに足りうる人間とはどういうものか、そこから考えて実践していかないと、子どもに偉そうなことは言えません。

 

なので、式典やなんかで、子どもが退屈そうにしていたら、あなたのスピーチが下手すぎるってことやで? って、気づこうよ、みんな!(特に来賓と先生)

我慢するのも勉強のうちって言ってた教師いたけど、先生が低きに流れてどうする?

先生だって見られてます。

教師ではなくても「先生」と呼ばれる方も、実は採点されているんですよ。

スピーチ能力って、ホントよくわかりますから。

 

という意識で、次回からは取り組んでほしいですね。

私もがんばるので。

 

不登校になったら負け組、なんて子どもが思わなくていい社会にしたい。

今回、二つの卒業式に参加して、お友だちのママとお話させていただくこともあったりして。

それでやっぱり再認識したのは、男の子ってプライドが邪魔して自分自身を追い詰めてるよね、ということ。

うちの上の子(男子)もそうだったので、すごくわかるんですが。

 

いじめにあうと、学校に行きたくなくなる、それは普通の心理です。

適応指導教室に通えば楽しいけれど、世間的には「学校に行けていない子」という扱いを受ける。

学校に行けていない分、勉強は大幅に遅れる。適応指導教室は自習が基本ですから。

それで、高校に行けるのだろうか。

てか、こんな自分に、未来なんてあるの?

 

「学校に行くという当たり前のことができていない自分」を、とにかく責めているんですよね、子どもって。

だから、ご近所さんにその辺のことを触れられると、たまらなく辛くなる。

でも、いじめは怖かった。

朝起きて学校に行くのも、辛い。

 

結局、「学校に行くのは当たり前」ってのは、「みんな我慢してつまんない授業につき合っているんだから、抜け駆けは許さないよ」っていう、奴隷根性の掃きだめですからね。

実際、今回のコロナ騒ぎみたいなのが起きると、いかに独学できるかが勝敗の分かれ目……みたいになってしまうし。日本では。

横並びで安心する方が、本当は怖いんですけどね。

ただ、そうやって思考停止してると、大人も子どももラクだからなあ。

 

確かに不登校生には発達障害の子も多いし、そういう障害を持った子と接するのは、こちらの技量が問われることでもあるんですけど。

この子にどこまで合わせていかなあかんのやろ? って思うこともありますけど。

できる人間が合わせていくしかないんですよね。

そうして、お互いに成長していくのがWin Win。

ちっぽけな損得勘定は、置いといて。

 

私も、子どもたちが不登校になってくれたおかげで、視野が広くなり、成長できた部分がとても大きいと思ってます。

自分の弱さと向き合う機会も得られたし。

 

学校に行かなくても、勉強はしなきゃいけなくて、ゼロから独学している姿を見ると、大変そうなんですよね。

特に英語。

勉強の仕方がわからなくて、英文を読むのにも、助詞とかまで全部調べながら、頭を抱えている我が子を見ると。

文法を学んで、単語や構文をおぼえて……という手順を踏まないから、明治の人みたいな勉強の仕方になってる。

 

過去150年の日本教育の積み重ねの上にある、今の学校の授業ってすごいなと、純粋に尊敬してしまいます。

だから、授業を受けられなかったというのは、損失には違いありません。

理科の実験だってやってきていないから、化学や電流がさっぱりわからないし。

 

でも、その事実を知った今がスタートラインで、今からじゃあどうするかって考えていけばいいし、知らなかった昨日よりは、前進しているわけですからね。

躓かない人生なんてないし、最終的には死という躓きがあるわけですから。

ま、幸せだなって思える瞬間を、いかに多くつくり出せるか、人生の勝敗ってそこだと思うんですけどね。

 

ライフスタイルや経済力が全世界に見える化してしまうことで、萎縮してしまう気持ちもわかりますけどね。

でも、どう生きるかは、自分で決めて行動するしかないんで。

 

個人が負け組・勝ち組とかって、狭い社会で足を引っ張り合うことよりも、日本が勝ち社会か負け社会か、考えた方がよくないですかね?

社会全体の幸福度が上がれば、それだけ相対的に幸福な人も増えるのでは?

本当はそういう社会に大人がしていかなければいけないのですけど、ふがいないので、みんなで考えていってほしいな、というところで。

 

閉塞感ばかりのこの春に、未来のための変化がありますように。

ありがとうございました。m(_ _)m

 

 

画像:kakkikoさんによる写真ACからの写真

不登校中学生の数学を見ながら考えた、勉強のわからなさの根本は国語能力?

f:id:honno-yokomichi:20200314213749j:plain

 

ほんのよこみちです。

コロナ騒ぎで学校が休校となり、我が家の不登校中学生も適応指導教室へ行けず、自宅学習の日々が続いております。

適応指導教室では、授業があるわけではなく、基本的に自習独学なので、まあ休みでも変わらないっちゃ変わらないんですけどね。

 

ただ、数学などのわからない問題を教えていただく機会はなくなったので、母親が出動せずを得ず、でも私も数学苦手だったしなあ……(^▽^;)

某B社の通信教材の解答例を片手に、ああだこうだとやってみたりしているわけですよ。

週一回の塾で訊いてくれ! とお願いしながら( ̄▽ ̄;)

 

で。

中3なんですけど、まだ中2の数学と格闘しておりまして、証明問題で躓いています。

一応高校も決まっていますが、このまま入学しても、苦労するのは目に見えているので、なんとかしようとやっています。

 

証明問題? そんな大昔のこと、忘れちゃったよ~ん。

なんですけどね。

 

塾の先生に、何度丁寧に教えていただいても、わからない、ということだったので。

これは、数学以前の部分で変なこだわりをもってしまい、そのこだわりゆえに、先生の説明に納得できないとかでは? と思いまして。

我が子のわからないポイントを訊いてみました。

 

正解は、問題の前提条件となる部分を、読んでいなかっただけ、でした。

 

前提条件の部分を提示してやると、難なく問題が説けるじゃないですか!

「わからない」の原因は、数学ではなく国語、もしくは発達によるものかなあと。

書かれてある日本文の解釈能力が上がれば、実は数学だって今以上に出来るのではないかと。

 

私も国語能力はそんなに高くないですし、学校の成績もさほど……でしたけどね。

それでも、国語力って基本だなと再認識いたしました。

 

思えばうちの子、昔のアニメは見ても、小説といえば『銀河英雄伝説』くらいしか読んでない。

あとは、エンタメ小説を少しと『トリスタン・イズー物語』。

現代っ子があまり本を読まないので、「やばい! 読んでない!」という状況にならないのでしょうけど。

SNSの短文だけじゃダメなんだよう。

文脈とか関連性を読む訓練をするには、短すぎて。

 

実は、大人でも、ビジネスメールの内容を解釈するのに苦労する人もいます。

反対に、相手に伝わるメールを書くのに苦労する人もいますけどね。私だ。

 

国語ってあまりに身近過ぎて、結構、誰でもできる楽勝科目……みたいに勘違いしたくなりますけど。

詩や、短歌や、俳句を、解釈することもつくることも難しいように、意識的に学習していかないと、思わぬところで足を掬われかねないなあと、思ったのでした。

 

現代は老いも若きも忙しいので、ゆっくり本を読む時間もなかなかないかもしれませんが、でも「急がば回れ」かもしれませんしね。

文脈を「読む」ことで、問題が解決するなら、それに越したことはありませんって。

自分の思考の基礎となる母語とは、いい関係でいたいものですね。

 

ありがとうございました。m(_ _)m

 

 

銀河英雄伝説全15巻BOXセット (創元SF文庫)

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トリスタン・イズー物語 (岩波文庫)

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十二国記『月の影 影の海』は、なぜ「ネズミが出てくるまで読むのが辛い」のか、を考える。(ネタバレあります)

ほんのよこみちです。

コロナによる自粛がどうにもこうにもなので、十二国記シリーズを読むことに逃げています(^_^;)

 

日常が戻ってくる保証なんてどこにもないけど。

どんなに頑張っても最終的に死んでしまう未来はどうにもならないし。

だったらやりたいことをやって。

経済も回して。

なんか誰かのお役に立てればいいかなって。

 

ということで、『月の影 影の海』(上)(下)を再読いたしました。

 

月の影  影の海 (上) 十二国記 1 (新潮文庫)

月の影 影の海 (上) 十二国記 1 (新潮文庫)

 
月の影  影の海 (下) 十二国記 1 (新潮文庫)

月の影 影の海 (下) 十二国記 1 (新潮文庫)

 

 

月の影 影の海 (上) 十二国記 1 (新潮文庫)』は、十二国記を読む上での最大の難所だと思われます。

ファンの皆さんが、これから読む方に口をそろえて言う言葉が「ネズミが出るまで頑張って!」

うんうん、私も同感です。

最初に読んだとき、私もまだ20代半ばでしたが、すごく読むのが辛かったですもん。

 

ということで、なぜ「ネズミが出てくるまで辛いのか」を考えたいと思います。

 

以下、ネタバレありますので、ご注意下さい。

 

 

 

 

望まぬことを突き付けられて、しかも拒否権なし。

この小説は、平凡な高校生の中嶋陽子が、ある日、謎の金髪男に出会い、続けざまにバケモノに襲われ、異界に引きずり込まれてしまう……という、まあ30年ほど前のファンタジー設定から始まります。

十二国記シリーズはラノベ文庫でしたから、ね。

 

しかしこの小説、陽子が嫌だと言っても却下してくるし、そんな陽子に金髪男のケイキは舌打ちせんばかりだし。

個人の自由とか権利とか、そういったものがまるで無視された状態で、ストーリーが進むわけです。

しかも、バケモノに命を狙われてるし。

なにそれ? 状態。

 

再読で、だいたいの流れをうっすら覚えている状態で読んでも、え? こんな人権無視が許されるの? と、腹立たしくなってしまいました。

嫌や言うとるもんを、問答無用で連れ去るって、拉致やん? って。

権利侵害は許しがたいので、再読なのに「は?」「え?」って怒りのツッコミを入れまくってたし、反面、命の危機にだだをこねてる陽子にも、怒りがこみあげてきて。

 

しかも、そうやって異界に引きずり込んどいといて、ケイキの奴、行方不明になるし。

こはちょっと、けじめ取れてないというか。

 

まあ、最後まで読むと、行方不明の理由もわかるし、陽子とケイキの力関係上、奴にけじめ云々を求めるのは、奴からしたら不本意なのかもしれないですけどね。

 

(てか、この期に及んで、まだ未読の方を意識した文面になってますが、もう全開になってもいいかなあ……。以下、全開でいきますね)

 

 

読む側が、他者の親切をあてにする精神構造になっている。

でまあ、異界である十二国の世界に連れて来られた陽子ですが、ちょっと前向きになったりして、ケイキを探しつつ、この世界でやっていこうと考え始めます。

 

で、現地の人に会う。

現地は大災害の後で、しかもその災害は、陽子がこちらに渡ってきたときに起きたものだとわかり、いきなり役人につかまったり、殺されそうになったりします。

親切そうな人に出会っても、その親切には裏がある。

妖魔は次々に襲ってくる。

安心安全なんて、どこにもない。

その、これ以上ないストレス。

 

陽子は普通の女子高校生で、彼女の目線で世界が語られてゆきます。

読者も同じように、異界を放浪しているような感覚で読んでいきます。

 

見知らぬ土地で、親切な人に出会ったら、信用したくなるのが人情。

見知らぬ土地で、同郷人に出会ったら、仲良くしたくなるのが人情。

この小説は、そういった人情を根こそぎ破壊してくれますから、陽子に感情移入しながら読んでいると、辛いです。

 

でも、その人情って、そもそもなんなんでしょうね。

 

我々は、よく「普通」とか「常識」とかといった枕詞をつけて、他人の言動にあれこれ言いたくなるときがあります。

「普通はこんなことやらないよね」とか。

「それ、常識的に考えたら、こうするでしょ」とか。

 

私の周囲でよく聞かれるのが、「後輩が挨拶しない」とか。

「あの人は部下なんだから、上司(自分)の言うとおりにしてくれればいい」とか。

「あの人は上司なんだから、ちゃんと動いて、揉め事も解決くれないと困る」とか。

普通はこうするでしょ? の応酬。

 

でもそれって、単に自分にとっての都合のいい役割を、相手に求めているだけなんじゃないでしょうか。

自分が求めるものを相手に提供してもらって、気分よくしてもらいたい。

自分の立場を考えてもらったり、尊重してもらう資格が、自分にはある。

世界の中心は自分。

他者は、自分に利益を与えてくれる素材。

 

例えば、子どもの頃は、親や親族や学校の先生に従うのは当たり前、とされています。

親や親族や学校の先生が、自分たちの命を奪うことはしない、という前提で、当たり前はつくられていますし、それどころか、言うことを聞いておけば得になる、と考えて、多少理不尽なことでも従ってきています。

 

他者の判断をあてにして、自分はその旨みを享受するだけでいい存在だと思い込んで、考えることを放棄して、他者が思ったように行動してくれなければ、「ひどい」と被害者意識に浸る。

いつのまにか、そういう種類の人間になってきていませんかね。

 

確かに、親切なふりをして、相手を騙すことは、決して褒められたことではありません。

しかし、その人にはその人の都合があるわけですからね。

どんな親切も、その人の考えがあってなされるもので、100%こちらのためだけに動いてもらえる……なんて考えるのは、傲慢というものです。

 

というようなことを、半世紀生きていると、いろいろ経験しますのでね。

 

もちろん、心細いときには、誰かにすがりたくなるのが人の性です。

今も、こんなご時世ですから、誰かに安心安全な人生を示してもらって、何も考えずにそれにすがって、一生幸福に暮らしたい……と思いたくなる気持ちもわかります。

 

でも、そんな便利な誰かはいないし、一生幸福でいられる安心安全な人生なんて、存在しない。

 

そういう見たくない現実を突きつけられるから、「ネズミが出てくるまで辛い」のかもしれません。

 

あの時代の女子と男子に対する警告。

この作品が書かれたのは、バブルの頃です。

日本人がまだお金を持っていて、男が女にお金を使うのが当たり前とされていた時代。

アッシーくん(電話一本で、車でお迎えに来る男の子)、メッシーくん(ご飯をおごってくれる男の子)、ミツグくん(高価なプレゼントをしてくれる男の子)……なんて単語が流行った時代ですね。

 

私は田舎もんだし、性格のひねくれた人間だったので、そういう華やかな都会女子の世界は知りません。

でも、かわいい子はちやほやされるのが当たり前だったんだろうなぁと、当時の女子を見ていると思いますもん。

男性=自分にサービスしてくれる人、と信じて疑わない純粋さ。

見ている世界が違う……ということを、突き付けられます。

 

といいつつ、当時は男女雇用機会均等法がすでにあったにも関わらず、女子はクリスマスケーキにたとえられる状況でした。

女は24歳までに結婚しなければ、売れ残り扱い。

就職しても、どうせ2、3年で辞めるだろう……という扱われ方です。

 

まだまだ、家事育児は女の仕事という認識が一般的でしたから、寿退社は当たり前。

頑張って仕事を続ける先輩もいましたが、出産の壁は越えられず。

21時22時の残業が普通……というか、24時間戦えますかの時代ですから、子どもを保育園に預けながら働くのは、現実問題無理でしたよね、じじばばの手助けがなければ。

(もちろん、この問題は現在進行形の問題でもありますが)

 

そういう、まだまだ女は男に頼って生きていくのが当たり前だった時代。

男が女にサービスするのが当たり前だった時代。

その時代の小説として、それも若い女子をターゲットとする作品として。

 

ちやほやされるのが当たり前と思ってたら、足をすくわれるよ、成長できないよ。

男に頼らず、自分で考えて解決していかないと、死ぬよ。

そういうメッセージが隠れているのではないのかなあ、と思うわけです。

 

だから、辛い。

甘えるな、と、突き付けられているから。

 

と同時に、一見か弱い女の子だって、こんなに強く成長するんだよ……という、当時の男子たちへの警告もあったかもしれません。

女子向けラノベでしたから、どこまで男子読者を想定していたかは、わかりませんが。

男に頼って、男の言いなりになって、男の庇護がなければ生きていけないような、男にとって都合のいい女ばかりじゃないんだぜ? という、ね。

 

なので、それまでの男女の固定概念に一石を投じようとしていた、そんな当時の世相を反映しているのかな、とも思いました。

 

変化というのは、それが仮に将来的な幸福につながるものであったも、最初はストレスに感じます。

ましてや自律を促すものは、か弱い自分に甘んじている身には、過酷な試練にしか見えません。

だから「やっぱり辛いよ」となるんですね。

だってもう、命を狙われるとか耐えられないし、人に裏切られたくないし、仲良くここでこじんまりと生きていければいいじゃん、って思っちゃいますからね。

 

ということで。

この本は、若いときに読むとより辛いかもしれませんが、しかし年とってから読むと本当に辛いので、一分一秒でも早く読み終えた方は、幸せ者だと思います。

何故なら。

辛さ以上に、得るものは多いと思いますしね。

 

少なくとも、ネズミと出会って以降のストーリーは、すっごく面白い!

皆の頼れる兄貴・延王尚隆も出てくるし、豊かな国とはこういうことか、と、ホント感心させられます。

フィクションじゃん? って?

でも、外国人が住みたいと思う国の方が、いい人材も集まるよねえ、人情として。

そういう意味で、人としての原点に立ち返ることのできる作品でもあります。

 

面白いですよねえ。

大好き。

十二国記の好きな方が、もっともっと増えてくれますように。

 

ちなみにうちの下の子は、「ネズミが出てくるまで頑張れ」と言い続けた結果、まだ途中で止まっています。

怖くて読めないって。

う~ん。

逆効果に働くとは、想定外でした。

その先が面白いよ~! って釣っているんですけどね(^_^;)

 

コロナ騒ぎの中でも、皆さまにより楽しい読書体験がありますように。

ありがとうございました。m(_ _)m

 

十二国記『魔性の子』はいつ読むべきか? 最初に読んだ方がいいと思う派の考え方。(ネタバレあり)

 ほんのよこみちです。

学校が休校になり、自宅で子どもの勉強を見る時間が増えたり、なんやかんやでストレスがたまってきたので、久しぶりに十二国記の再読を始めました。

 

というか、昨秋の新刊『白銀の墟 玄の月』を読もうとしたら、内容をすっかり忘れていて、これは全巻読み返さなあかんわ~って思ってたんですよね。

20年以上続いているシリーズものは、記憶が経年劣化していくので、新刊が出ると読み返しが必要になって、その読み返し自体に時間がかかると、さらにもう一度、初めから読み返さなきゃいけなくなって……無限ループ……^^;

 

十二国記は、もともとラノベのシリーズなので読みやすく、また作品自体が面白いので、ファンの多い小説だと思います。

その十二国記シリーズの中で、いつ読むか、意見の割れるのが、序章である『魔性の子 十二国記 0 (新潮文庫)』。

 

私は刊行順に読む派なので、『魔性の子 』も最初に読む派です。

(確か、講談社X文庫ホワイトハート版より、当初の『魔性の子』は若干早かった気がする……)

なので、以下、その辺を踏まえながら、あれこれ書いてみたいと思います。

(ネタバレは絶対ありますんで、そこんとこはご了承くださいm(_ _)m)

 

魔性の子 十二国記 0 (新潮文庫)

魔性の子 十二国記 0 (新潮文庫)

 

 

最初に読むことで楽しめるホラー感。 

十二国記というシリーズは、中国風ファンタジー小説なのですが、序章である『魔性の子 』だけは、現代を舞台にしたホラー小説です。

(この現代を舞台にした……というあたりが曲者なんですが、そこは後ほど)

 

このホラー感を楽しむなら、絶対最初に読むべきなんですよ。

だって、『風の海 迷宮の岸 十二国記 2 (新潮文庫)』の後に読むと、ネタバレ状態で読むことになるので、読み方が180度変わってしまうというか……。

 

 

 

ここから、いろいろネタバレを書き散らしそうですので、未読の方はご注意くださいませ。

 

 

 

魔性の子』を最初に読んだ場合、高里要の周囲で起こる怪異は何なのか、高里要はダミアン(悪魔の子)なのか、その辺にハラハラしながら読むことができます。

教生の広瀬は、はたして高里要を救うことができるのか? それとも殺されてしまうのか? というような、ホラーの読み方ができるんですよね。

 

それが『風の海 迷宮の岸』を読んだ後に読むと。

 

時系列的には『風の海』が先で、その後日談が『魔性の子』なので、わかりやすいといえばわかりやすいんですよ。

反面、怪異の正体もわかってしまう。

わかってしまう上、語り手である広瀬に対し、違和感を抱きかねない。

高里要・応援団みたいな視点で読んでしまいかねないので、恐怖の方向性が、完全にそっちに偏ってしまうんじゃないかと思うんですね。

 

とはいえ、結末がホラーからファンタジーに移行してしまうので、100%ホラーとして楽しめるかと言えば、そうとは言い切れないんですけど。

それでもやっぱり、『魔性の子』を最初に読む派として、手を挙げたいと思います。

 

最初に読むことで、広瀬の視点で読める。

 先ほども書きましたけど、『魔性の子』の語り手は、高里要の学校に教育実習生としてやってくる広瀬です。

苗字は広瀬、名はない。

広瀬の目線で高里を見、高里にまつわる怪異を見聞し、巻き込まれて、行動します。

高里の中の悪魔性を疑ったり、高里に憑りつく妖に怯えたり、そんな特異な高里に親近感を抱こうとしたり。

そうして、高里にも広瀬にもハッピーエンドとなるような結末を、一生懸命模索します。

広瀬目線で。

 

そうして読むことで初めて、広瀬に突き付けられたおのれの弱さ、醜さを、読者も疑似体験として共有できるんですね。

 

ここ、結構重要だと思います。

魔性の子』のテーマって、これだと思うので。

 

ところが『風の海 迷宮の岸』を先に読むと、広瀬目線のさらに上から読むようになります。

からくりがわかっているので。

広瀬の右往左往に「そうじゃない」とハラハラしたり、場合によっては、広瀬がおのれの弱さや醜さに冷静さを失っている場面で、彼を蔑みたくなるかもしれません。

客観視できてしまうので。

 

ただそれだと。

自分自身の中にもあるかもしれない弱さや醜さを、スルーしかねないんですよね。

 

高里を取り囲む世界目線に立つことで、真実を知っている強者側に立つ安心感のようなものに身を任せ、他者の愚かさを見下すような、読み方になってしまわなければいいんですが。

 

再読の場合、どうしても広瀬がイタイ男に読めてしまいます。私がそうでした。

無知って怖いよね~、と。

 

でも、生きている人間なら、知らないことがあるのは当たり前だし、想像したり推理したりして、目の前の年下の子を何とか助けようとするのも当たり前だし。

それで推理が間違ってたり、実は単なるエゴだったりしても、気づいたときに、少しずつでも本人が向き合っていけられたら、それでいいじゃん?

って、まあ50年も生きていると思うわけですけどね。

 

人生に「逃げる」行為は必要だが、どこかに幸福の楽園があるわけではない。

最初に読む派……と言いつつ、しかしより深く作品を楽しむなら、シリーズを読むどこかで再読した方がいい、とも思っていたりします。

なんだよ! って声が飛んできそうですが。

この作品のテーマをなお一層実感するには、高里の置かれた立場を知った上で読むことも必要かなと思うので。

 

すなわち、広瀬の思い描くような「居場所」は存在しない、と。

高里の居場所は、ある意味、この現実世界よりも過酷な世界なんだと。

 

ここでちょっと私事ですが、私の人生は「家出」でつくられている、と言っても過言ではないくらい、家出しています。

結婚も離婚も「家出」。

「家出」をしなかったら、多分、人生に行き詰って、幸福を微塵も感じることがなかったかもしれない、と今なら思えます。

なので「逃げる」行為は、生きていく上で必要だと思っています。

 

でもね。

同時に、心機一転すればすべてがうまくいくわけではない、ということもわかるんですね。

環境を変えて、自分の行動も考え方も変えて、弱さや欠点を改めようとして、それでもついてくるおのれの至らなさ。

あがいてもあがいても、自分は自分でしかないわけですから。

 

他者と違う自分。

他者と同じようにできない自分。

自分だけが取り残されていくような疎外感。

そんな孤独を無条件で癒してくれる楽園なんて、母親の胎内くらいしかないんです。

でも、そこには戻れない。

 

魔性の子』は、広瀬の孤独感で幕を閉じます。

楽園に行けた高里と、取り残された広瀬。

 

誰もが、選ばれる方になりたいと思いつつ、果たして選ばれたことが幸福だったのかと、十二国記シリーズを知る人は思うかもしれません。

だってこのシリーズ、主人公に選ばれたキャラはみんな、どん底人生から這い上がることを強要されますからね。

その上、高里は麒麟だし……(生殺与奪を王に支配される存在……)

 

結論は、『魔性の子』は最初に読んでから『黄昏の岸 暁の天 十二国記 8 (新潮文庫)』を読む前に、もう一度読んでね! というところですかね。

(なんかもう身もふたもない……)

 

実はバブル日本を知れる時代本!

この本の解説を平成3年8月に菊地秀行氏が書かれていますが、初刊行ももちろんそのころなんですよね。

まさしく、バブルがはじけんとする頃ですよ。

なので、作品のいたるところに、バブルの香りがします。

 

大規模なニュータウンとか。

ビデオテープとか。

アンテナ立てて、遠方のアニメの再放送を見るとか。

どれももう、前時代の遺物的な扱いを受けてますよね。

でも、そんな中に、活気があったんだよなあ……。

 

当時を知る世代にとっては、なんともこそばゆいノスタルジックな感覚なんですけど。

若い世代にとっては、それすらもファンタジーなのかもしれません。

我々が、明治文学に抱くそれのように。

昭和の人間が、若者の感覚に圧倒されるように。

 

「古い」の一言で片づけてしまうのは簡単ですが、面白い作品なので、その時代性も含めて、読んでいきたいなと思いました。

 

あらためて思う、物語の強さ。

この『魔性の子』も含めた十二国記シリーズは、結構読者のメンタルをえぐってきます。

それでも全く嫌味にならないし、むしろ面白いと感じるのは、物語の強さですよね。

 

作品のテーマを、直接言葉で投げかけたら、誰もきいてくれないだろうし、敵が増えるだけ。

何を今さら当たり前のことを? ですけど、今さらながらに感じたわけですよ。

同じようなことを息子に言って、口論になったりしているのでね(^_^;)

 

私は数年間、小説の読めない状態を過ごしました。

その間、物語の中に透けて見える嘘加減が辛くて、ずっと逃げていました。

 

今、小説の面白さを感じることのできる幸せを、本当にありがたいと思っています。

まだまだもっと読みたいですね。

 

みなさまにとって、幸せな読書体験がありますように。

ありがとうございました。m(_ _)m

 

 

魔性の子 十二国記 0 (新潮文庫)

魔性の子 十二国記 0 (新潮文庫)

 

 

 

風の海 迷宮の岸 十二国記 2 (新潮文庫)

風の海 迷宮の岸 十二国記 2 (新潮文庫)

 

 

 

黄昏の岸 暁の天 十二国記 8 (新潮文庫)

黄昏の岸 暁の天 十二国記 8 (新潮文庫)